どこかでまた息をしてる
岩手に向かう。盛岡がいかに好きな街か、たとえば僕は22年間ずっと仙台で暮らしているのだが、たった数度しか訪れたことのない盛岡という街と仙台とを天秤にかけ、この世で1番好きな街はどこですかと問われたときに答えが出せないくらい好きである。
電車の中で小説を読む。僕は小説を外出先で読み切ることを趣味としていて、特に長旅の電車の中で読むのが好きだ。綿矢りさの『勝手にふるえてろ』を読む。好きな人の匂いの話が出てきた。「相手の体臭が好きになれるかなれないかは遺伝子レベルの相性の問題」と。この話を、数日前に誰かにした気がするなと思った。匂いが好きなら好きなんですよ。そうあってほしいんですよ。僕は強烈に好きだった匂いのことを思い出していた。
一ノ関駅で盛岡行きの電車に乗り換えるとき、少しだけ待ち時間があったので喫茶店に向かう。いつから喫茶店を好きになったのか忘れつつある。好きな人の好きなものを好きになりたいなと思っていたら、いつの間にか自分の好きなものになっていた、みたいな感じで、僕は誰かの好きなものを吸収しながら大きくなる怪物のようにカフェ・フロスティを飲んでいる。つめたくておいしい。常連らしき年配の男性ふたりが店主の女性と話をしている。桑田の息子がハーフみたいにかっこいいんだよ、桑田自身はそうでもないのにねえ。あれは奥さんがよっぽど綺麗なんだろうね。桑田自身はほんとにそうでもないのにねえ。
とてもいい短歌をつくる友人から「歌壇4月号p46を読んでくださいなぜならきみによく似た誰かのことを詠んだから」と言われ、だったら僕は盛岡でその雑誌を手に入れなければならないな、と思っていた。友人は盛岡に生まれ、仙台で出会った。盛岡駅に着いて、駅の中の大きな書店へ向かう。その雑誌は見当たらなかった。どうした、啄木と賢治が泣いているぞ。特に啄木なんか泣き喚くんじゃないか。僕は啄木じゃないけれど、なんとなく泣き喚きたい気持ちになって、ひとまず外に出る。
盛岡を訪れる時はだいたい高校時代の同級生の演劇を観に行く時だ。今回もそうで、盛岡劇場という大きなホールの地下にある、少し小さめの劇場で彼の演劇を観た。相変わらず素晴らしかった。「繋げる」ということをモチーフにした、卒業公演らしく、彼らしい演劇だった。父から子へ、最後の文字から最初の文字へ、第9走者から第10走者へ、第33代から第34代へ、布は汗を吸い、先へ先へと進んでいく。死んだものが蘇った時の心情の複雑さに苦悩してしまうこともあるが、蘇生することの喜びまでも打ち消してしまうのは嘘になるであろう。感動したままアンケートを書き、感動したまま彼と話し込んでいて、彼と写真を撮るのをすっかり忘れてしまう。写真を撮りそびれるのはこれが初めてではなく、幾度となく彼の演劇に感動し、興奮し、写真も撮らずひたすらに語り合ってしまう。というと、次に会って写真を撮った時は演劇に感動しなかったからだと思われたら嫌だな。次は感動も写真も同時に持ち帰ろうと思う。覚悟していてほしい。
年度末最後の三連休ど真ん中の街はそれなりに賑わっていて、あちこちで楽しげな声がした。新しいものと古いものがごちゃ混ぜになっている商店街は、眩しければ眩しいほど醜い。そこから少し外れた場所に喫茶店がある。短歌をやっている友人が大好きだというその喫茶店は、入った瞬間に好きだとわかる内装をしていた。二階へどうぞ、と言われて上に上がると、あまりの素晴らしさに魂がふるえた気がした。いい人に出会えば同時にいい場所も教えてもらえるから嬉しい。フォンダンショコラと紅茶。ミルクが温められている。たっぷり注いでミルクティーにした。紅茶を運んできてくれた人に、小さくて愛嬌のある女の子のことを憶えていますか、と言いたくなって、やめた。あの子に教えてもらったんですよ。すごく来たかったんです。口に出さなかった甘い物語は砂糖と一緒にミルクティーに溶かした。
商店街の書店で歌壇4月号を、大きなビルに入っているジュンク堂で現代短歌4月号をそれぞれ買う。バラバラに購入したことに意味はなく、欲しい2つの雑誌がひとつの書店では揃わなかったからだ。歌壇には僕によく似た誰かが閉じ込められているらしく、現代短歌にはすこし前に友人に見せてもらった原稿が載っている。盛岡から仙台は乗り換えがうまく行ったとしても3時間半はかかるので、電車の中でゆっくり読もうと決めて駅へ向かう。そろそろ19時。今日のうちに家に帰るには、19時25分に盛岡を発つ列車に乗り込まなくてはならない。
バスセンターも光ビルも無くなったこの街だけれど、かつて銀行だった赤煉瓦の建物や、大好きな雑貨屋や、いくらでも食べられそうなコッペパン屋や、大好きな場所は幾らでも残っていて、その内のひとつである開運橋に辿り着いたあたりできのこ帝国の『桜が咲く前に』を聴いた。東北人にとっての別れの季節は、桜なんてなく、山の上にはまだ白い雪が残る、寒い寒い時期のことである。この曲のミュージックビデオはたまらなく愛しいが、舞台となった景色は少しずつ姿を消している。開運橋の近くには立体歩道橋があるのだけれど、みな下にある横断歩道を渡るのでわざわざ立体歩道橋に登る人はほとんどいない。そこでいくつか写真を撮った。ライトアップされていない開運橋ははじめてだった。光に照らされていなくても、僕がこの街を愛する理由の何割かはここにある。
紫色のロングシートに座ると、盛岡から自分の身体は少しずつ離れていく。またここに来たいと思う。できれば、僕の好きな人か、僕のことが好きな人と一緒に来たいと思った。もちろん両方を同時に満たしている人がいればそれが最善であるものの、そんなことは珍しくて、矢印が片方だけの場合がとても多い。相手をほんとうに好きになれるかどうかは、それこそ遺伝子レベルで決まっているのではないだろうか。でも、ほんとうに好きではない人とも、相手の好意があれば一緒に過ごすことができる気がしている。それこそ何割かの愛で。盛岡と仙台くらいの距離なら、完全に一緒にはなれないけれど、何時間かの誤差くらい、どうにでもなるんじゃないかと思う。
一方で、やはり僕は僕のほんとうに好きな人と過ごしたいし、誰かには誰かのほんとうに好きな人と過ごしてほしいという気持ちがある。最善を探し求めていてほしい。易々と住まわないでほしい。勝手に愛し始めないでほしい。紅茶と牛乳、愛と性欲、生と死、3月と4月、海と陸、善と悪、白と黒、様々な境目がなくなるまでかき混ぜて飲み干しても、どちらか片方のことを単体として考えてしまう。
『発色』
信じれば裏切りに遭う獅子色の君には二度と会うことはない
美しい思い出ばかり汚します 激しく混ざり合う赤と白
息をする場所を互いに奪っては 互いに被害者の顔をする
嫌ならば嫌 無理ならば無理 たかが愛だろここに来れぬ程度の
普通という称号を得てどこまでも走れやしない最終列車
暗闇を模した誰かの網膜を侵す 好きでも嫌いでもいい
三月に終止符はなく透明な境界線を指でなぞった