怪獣の部屋
今年の初めにカメラを買った。ちょうど40,000円のミラーレス一眼。
衝動買いだった。気持ちが深く深く沈んで、立ち直れそうにないときに、僕はよく大きな買い物をする。
物に自分の未来を託している。物から進むべき方向の示唆を得る。受動的な姿勢ではあるが、自ら動く力がなくなったときは有効な手段だと考えている。大きな買い物をすると必然的に資金が必要になるので、アルバイトに精を出し、無駄な出費を抑え、という風に生活の維持のために奔走するうちに、気持ちは少しずつ回復していく。
カメラが手に入ってから撮影した写真の数は幾千枚ほどになる。安価なミラーレス一眼であるから、画質はiPhoneと大して変わらないように思えるが、カメラを両手で構えて、被写体を探して、シャッターを切る、という行為は、iPhoneでボタンをタップするよりも遥かに気持ちが良い。積極的に旅行に出かけるようになった。写真を見ればたちまち景色と共に思い出が蘇る。気恥ずかしくなるくらい当然で、笑ってしまうくらいに尊い。
カメラの普及が進んだのは19世紀末のことだという。約120年近く、人間はカメラにハマり続けていることになる。恐ろしい装置、カメラ。怪獣の名前にも似ている。恐ろしい怪獣、カメラ。
カメラ(camera)という言葉の語源はラテン語だ。「部屋」という意味を持つ。僕は小さな部屋を持ち歩いている。部屋に風景を覚えさせて、僕の六畳間は永遠に膨張し続ける。僕の部屋は仙台にある。ある時は東京で、または盛岡で、実はオーストリアにあるかもしれない。
撮影テクニックを学ぼうだとか、PCを使って写真をレタッチしようだとか、そういう類の向上心は今のところ持ち合わせていない。とりあえず撮って、SNSやブログに貼り付けるだけの日々。僕と同じような人間がこの世にはいくらでもいる。自分にしか撮れないものなんてどこにもないよなあと思う。Instagramの投稿に何の意味や需要があろうか。
それでも僕は自分の部屋を見せびらかすのだろう。今日も怪獣は「カシャッ、カシャッ」とうめき声をあげながら、ときには眩い光を放ちながら、部屋にある壁を壊し続ける。僕はせめて拡張された部屋の景色が、とびきり美しいことを願う。