そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

ドッペルゲンガー中毒

 

街を歩いていると、かつての恋人によく似た人と目が合うことがある。目が合うということは、俺がその人を見ていたのだろう。目が合った瞬間に、似ているな、と思う。しかし、相手は別の人である可能性が高いので、似ているな、とは思わない。つまり、何を見ているんだろう、と思われている。俺は何を見ているのだろう?


街で、駅で、職場で、色々なところで俺はその人に遭遇する。ここまで遭遇率が高いと、本当に元恋人に似ていたか?と疑問に思うことがある。記憶の中にいる元恋人と、街で見かけた人たちの顔を混ぜて、当たり判定の広いモンタージュを構築しているのかもしれない。あるいは、時間経過の中での変化を勝手に想像し、目の前の人間に寄せているのかもしれない。


街でまた遭遇するその人を見つめ、目が合った瞬間に、似ているな、と思う。それ以上は何も起こらない。俺はまた無自覚に誰かを見つめてしまっている。


とはいえ、「眼鏡・黒髪・地味顔」の自分のほうが、世間にはありふれている顔である。それはつまり、さまざまな元恋人の日常の中で、俺のドッペルゲンガーが出現しているのではないか、という予想だ。


俺みたいな俺じゃない誰かがいる。ウォーリーを探せの絵のように、ささやかな違和感を忍ばせながら、本物のような顔をして過ごしている。そのうちのひとりは俺で、きっと君のことを見つめるが、お互いに本物とは気付かずに立ち去るのだ。