そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

夢現

最近は淡々と外出をしている。

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1人でひたすら知らない街を歩くのがたまらなく好きだ。そこに何かを求めるわけではなく、ただ歩いて、街を見て、美味しい飲み物を飲んで、帰る。そんな休日を繰り返している。

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東北は6県を合わせても1日の感染者は数十人程度になっている。これが多いのか少ないのかは分からないが、東京と同じようなレベルの感染対策を続けるのはさすがに過剰なような気もする。おそらく全国あるいは世界中で0にに近い数字になるまで自粛は続くだろうが、東北地方の中で最も感染者が多い宮城県であっても1日10人程度のペースなので、1人で昼間にふらっと隣県へ出掛けるのをこれ以上制限されてもな、という気持ちが芽生えている。なにせ、1年も経てばなくなってしまう、あるいはもうなくなってしまったものばかりなのだ。

 

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会津は観光地としても有名だが、さすがに人が少なかった。集客が見込めないのか、休業をしている店も多い。この状態がどのくらい続いているのだろうかと思うといたたまれない気持ちになった。地元の人が通うようなスーパーやコーヒー豆の販売店は繁盛していて、高価な陶器を並べているようなお店や土産屋は軒並みほとんど人が入っていない。鶴ヶ城も閑散としていた。何年か前は少し並んでから登った天守閣の頂上に、拍子抜けするほどあっさりと到達した。そして街を見渡した。見えるすべての場所に生活があり、それを支えているのは人々の消費行動であるが、移動と密接を伴わないような消費行動が優先されるようになってから、観光という産業の脆さがこれでもかと顔を出しているようであった。

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かつて鶴ヶ城戊辰戦争における会津戦争にて、旧幕府軍は籠城の後に降伏し、城は大きく損傷したものの改修されることなく放置され、やがて解体された。現在、鶴ヶ城の内部は戊辰戦争などの会津藩の歴史を学ぶことのできる施設になっている。荒廃した明治初期の鶴ヶ城の写真が目に焼き付いた。明治維新から文明開化、社会が大きく変わっていく中で、旧幕府軍と共に時代に取り残されて消えてしまったかつての鶴ヶ城は、どことなく今の観光地の姿に似ているような気がした。我々は今まさに籠城をしている最中ではないかとも感じた。籠城の喩えは決して適切ではないかもしれないが、そう思わせるくらいには人がおらず、静かであった。

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もちろん先に書いたように街自体が閑散としているのではなく、然るべき場所には住民と思われる人々が多くいた。ランチのために入った喫茶店も満席だった。観光地化されていない土地ではわりと平等に人が減ったり生活様式が変わったりしているように見受けられるが、観光地における感染症の影響の歪さはなかなかにショッキングなものである。可視化されていないだけで、自分の住んでいる街にもこのような歪さが溢れており、それに苦しむ人が数多くいるのだと思うと、自分が休日を休日として過ごしていること、つまり十分な給与が保証され、休日が保たれ、余暇に使える可処分所得があり、心身ともに健康であることへの罪悪感がどうしても湧き上がってくる。しかし、勝手に悲しんでばかりではいられない。自分には自分の生活がある。

 

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2021年2月13日。大きな地震があり、部屋はめちゃくちゃになり、家のテレビは壊れた。そこまではだいたいあの日と同じだった。しかし津波は来なかった。倒れたものをすべて片付け、翌日からは何事もなかったかのように仕事をした。全てが倒れていた職場のパソコンやモニターを起こし、いつも通りに電源が付いたとき、「あのとき地震だけで津波がなかったら」という仮定があまりにも自然に、はっきりと目に浮かんだ。浮かんでしまった。それは僕が何度も何度もぼんやりと考えていたものだったけれど、大きな地震があって急に実像を伴って現れた。

この10年、様々なことがあった。きっとこれからも起こり続けるだろう。自分がこうして比較的平穏に過ごしている現在は偶然と偶然の間のあらゆる分岐を伝って辿り着いたものでしかなく、実際にはどんな現在もあり得ただろう。未だに特定の仮定に囚われるのには、さすがに事が起こりすぎている。それでも「あの日」「あの時」がたったひとつの事象のことを指す土地に暮らす者として、「あれから」のことを思い巡らすのは、あの時に2度と戻らないスイッチを押されてからの出来事がすべて地続きだという感覚があるからだ。

会津で見た歪さのことを僕はよく知っているはずだった。仙台東部道路の右と左で景色が一変していたこと、国道6号線でいくつも見たバリケード、痛みに寄り添いきれないことの痛みなんて大したことないのに苦しくてやり切れなかった日々は今もまだ続いている。亡くなった偉大なミュージシャンが作った歌を、亡くなったという事実なしに聞くことができた過去も、そして今も変わらずに好きだと思っていても、どうしたって今聴いたら泣き出しそうになる決定的な感覚を、自分だけが生き長らえることの訳の分からなさを、鈍らせて鈍らせて鈍らせながら生活は続いていく。