そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

それ全部そうじゃん

短歌を作っていると、自分以外にもたくさんの人が短歌を作っていて、かつ自分よりも良い歌を作る人がたくさんいるのに、どうして自分は短歌を作るのだろう、という気持ちになる。けれど、それは短歌に限ったことではない。文章を書くこと、本を読むこと、喫茶店に行くこと、今やっている仕事、思いつく全ての行為は誰だって出来るし、自分がやる必然性はない。

 

お気に入りのカフェが閉店し、別の店に通う。あらゆるものが代替可能な中、自分が生きる理由なんてどこにもなく、行為も言葉も思想も感情も取るに足らない。それは決して悲しいことではないと思う。自分が特別じゃないことくらい、はじめから知っている。むしろ自分の代わりがいることに救われることもある。誰かがやってくれていることは悪いことではない。

 

ただ、あえて言うまでもなく、あなたは私にとって大切で特別な存在だと、友人や家族に対して思う。世界にとってではなく、私にとって。私自身が吹けば飛ぶような存在であるから、「私にとって」にもあまり大きな意味はない。世界にとってだとか、世の中にとって、みたいなことを思えば思うほど、生きる理由は目減りしていく。

 

今年に入って、数多くの有名人が命を落とした。その中には、敬愛する音楽家や、好きだった俳優がいた。しかし、彼らもまた、いや、彼らは私たち以上に、代替可能な存在であることについて深く考えていたのだろうと思う。俳優には代役が立てられ、作品は続いていく。Spotifyで別のアーティストの新曲が再生されていく。彼らを失ったことによる空洞は、きっと埋まらない。埋まらないことを認めながら、別の何かで代替されていく。

 

私はたくさんの「私にとって」を抱えながらこれからも生きていく。それが大したものではないと知りながら。私にとっての素晴らしい曲、素晴らしい人、素晴らしい演技、素晴らしい街、素晴らしい言葉、いくつもの素晴らしいをすべて讃えて生きていく。これからも文章を書いて、短歌を作り、仕事をして、カフェに行き、眠る。それが世界にとって意味のないものだとしても続けていく。