そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

生活のようなもの

それはもう明らかに、好きな人と好きな漫画の貸し借りをしたいし、一緒にライブに行ったあとにワンドリンクのアルコールだけでは物足りないからコンビニで缶のお酒を買って夜道を歩きたいし、一緒に映画を見た後にファミレスでドリンクバーだけでひたすら良かったシーンの話をしたいし、壁と空気の薄いカラオケボックスで終電を逃してAwesome City Clubをふたりで歌いたいし、けれどそういうことをできない学生時代であったから、そういう「カルチャー好きにとっての青春」みたいなものに途轍もない羨望があった。

何度か、好意がまだ名の付く関係性に変わる前の相手に対し、漫画の貸し借りを試みたり、映画に誘ってみたり、ライブのチケットを二人分取っておいたりした。うまくいかないことがほとんどだったのは、好きが噛み合うことなんてほとんどなかったからだ。それでも「結果として付き合わなかった二人の物語」のことを時々思い出してしまう。DMのやり取りが思った以上に続いたから期待して約束を取り付けて、地下鉄の座席に並んで座ると反対側の窓に二人分の顔が映って勝手に写真みたいになるから、このまま二人組として切り取られたならいいのにと思った。夜の公園、長電話、下調べして向かった居酒屋、どこにだって恋になり損ねた物語があって、登場人物になり損ねた自分がいた。

そんな学生時代の終わりに、今の恋人と出会った。高校時代にふくろうずとSISTER JETを聴いていたと分かった時に、もしかしたら、と思った。カラオケでAwesome City Clubを一緒に歌えた時に、こんなことがあるのか、と思った。いくつもの偶然を必然にしてしまえる気がした。花火大会にひと夏で三回行って、展示が変わるたびに美術館に通い、柴田聡子のライブに一緒に行って二人で歌いながら帰っているうちに、主語は「わたしたち」になっていった。

遠距離だから会う時は全部がデートだった。今もそう。会うたびにLINEのアルバムを作ってそこに写真を入れていくのはとても尊い行為だ。緊急事態宣言が出て互いの住処を行き来できない時期はオンラインゲームの中で会っていた。ユーモアのセンスがちょうどよくて、いい具合に知らないことを知っていて、知っていることを知らなくて、思い切りが良くて、いつでも笑顔は百点満点を叩き出してくれる人。

そんな恋人とは最近も、A子さんの恋人の最終巻を二人で読んで泣いて、好きなバンドの1stアルバムから最新作まで全部聴かせて、みたいなことをまだやっている。自分の青春ゾンビっぷりに愛想尽かされなければいいなと思いながら、映画を見て小説を読んで暮らしている。それが青春ではなくて生活に変わっていって、生活として、紅茶を淹れて音楽を聴きながらこの日記を書いている。同じものを見ながら、一緒に生きていく方法を二人で考え続けたいと思うのだ。