そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

ボールプール

 

頭が締め付けられるように痛い。きゅうきゅうと、西遊記孫悟空が頭の輪っかを締められるみたいに、同じくらいの痛みがずっと続いている。こういうことは前にもあった。「緊張性頭痛」に分類される頭痛らしい。原因は自分の場合、精神的なストレスだ。原因がわかったところで、どうにもならないなあとは思っている。

ぜんぶ顔に出る。楽しそうなとき、不安なとき、悲しいとき、照れているとき。誤魔化しようがない。今は不安で苦しくて悲しそうな顔をしている。目の前に鏡がなくてもわかる。

 

日記を書く余裕のなかった、ここ2ヶ月のことを考えている。特に時間的にも精神的にも余裕がなかったのはこの1ヶ月だ。仕事をしていた。別に楽しくなかったわけではない。むしろ、得たものはたくさんあった。充実した日々をを過ごした。けれど今、とてつもない不安と頭の痛みが残っていて、バスに乗りながら、どうしたら良いと思う?と隣に座る名前も知らない他人に話しかけてしまいそうになるほど、心は苦しい。

 

少しずつ自分のことがわかってきた。働きながら自己分析をしているような感覚だ。特に、自分の喜怒哀楽について。端的に言うなら僕は、心で悲しみ、脳で喜んでいる。

苦しい時は心がきゅうと締め付けられたように苦しくなる。苦しい。悲しい。そんな時に動悸がする。たとえば、誰かがひどい罵詈雑言を浴びせられているとき。自分がつまらない失敗をしたとき。それを責められたとき。心の機能が止まると、脳に伝達が行って、僕の言葉や表情はすべてストップしてしまう。

楽しい時は脳がどんどん活性化するように楽しくなる。嬉しい。幸せ。そんな時は本当に脳がぐるぐる動いて、どんどん言葉が溢れ出てくる。たとえば、人と面白い話ができたとき。自分の作った場や物で誰かが喜んでくれたとき。構造の面白い漫才を見ているとき。脳が活性化すると、色んな表情ができるようになる。良いアイデアも浮かぶ。

ずっと楽しくはいられない。そんなことはわかっている。でも、楽しい時の自分が好きだ。楽しい時の自分でいたい。楽しい時の言葉を大事にしたい。

 

この週末は1ヶ月ぶりに真っ当な休日を過ごした。何というか、ぜんぶが尊かった。空の青も、海の青も。街を歩く人々も。日が長くなっていることに気が付いた。鳥の声を聞いた。春を通り越して夏だった。

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ここ最近はずっと週末も仕事の後処理や準備をしていて、平日もだいたいは遅く帰って残った仕事をやるかすぐに寝るかの二択。今回の週末も仕事の連絡はどんどんやって来ている。

 

不安の要素をひとつずつ分解してしまうと、もうこの先、僕は生きていけないような気がしてしまう。できないことが多すぎて困る。意識すればできることもあるけれど、その意識を24時間、土休日も保ち続けることができないから、結果としてできない。

簡単なことができない。当たり前のことができない。甘えとでも何とでも言ってほしい。当たり前のことを当たり前にすることが大事なら、当たり前のことができない人間はどうやって生きていけばよいのか。そもそも当たり前は誰が決めたのか。これは当たり前なんだろうか。病名がついても納得できない。不安がボールプールみたいに溜まっていき、溺れたら脳の動きは止まってしまう。君はボールプールで溺れたことはあるだろうか。あんなに軽い球なのに、埋もれていくと手足が動かさなくなる恐怖のことを。