そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

大したことないよ君の言葉

 

伝えたい言葉がなくなってしまった。くそー。こういう日はひたすら悔しい。自分の存在意義がわからなくなる。

 

僕は子供の頃から自分の言葉にそれなりの自信みたいなものを持っていた。飛び抜けた文才はないけれど、ある程度は文章が書けた。

携帯電話を手にし、ブログを始めてからは、ますます自分の言葉を信頼するようになった。ファンだよ、と言ってくれる人がいた。付き合っていた女の子に言葉を褒められることがあって嬉しかった。

運動のできない、背の低い、かっこよくない、秀でた何かのない自分にとって、言葉は唯一の武器みたいなものだと感じた。何かを書くときはいつも、誰にも負けてやるものかと思いながら書いた。

 

自作歌詞を投稿できる携帯サイトがあって、書き溜めた詩をたくさん発表した。投稿された歌詞にはコメントがつけられるようになっていて、色んな人に褒めてもらえた。閲覧数によるランキングで1位を取ることもしばしばあった。

高校生の頃の自分は、そこでの評価が全てだった。たくさんの人に自分の言葉をすごいと言ってもらいたかった。

 

今はブログを書いている。ずっとずっと、自分の承認欲求を満たしているだけだ。僕は言葉を認めてもらいたい。詩的なものも、公的なものも、ふざけたものも、どんな種類であっても、自分から生まれる文字列すべてを認めてほしいと思っている。

だから、自分から言葉が何も出て来ないと苦しくなる。悔しい、虚しい、といったありきたりな形容詞を無くなるまで吐きたくなる。やるせない。悲しい。もどかしい。さみしい。

 

認めてもらいたい割には、僕には文才がない。話術もない。そんなことは分かっている。きっと今のままではお金にはならない。

けれど、僕の言葉が誰かに届いて、気休めくらいにはなってほしい。ちょっとだけ笑えるようになってほしい。救われた気分になってほしい。それくらいは出来るんじゃないかって、淡い期待を抱いている。

 

僕はこれからも自分の言葉を発し続ける。今はほとんど伝えたいことがないけれど、それでも書く。それでも話す。本当に救いたいのは自分自身だってことを知っている。言葉が僕を起こし、僕を歩かせ、僕を走らせている。