長町仮設住宅の解体・撤去開始について
長町の仮設住宅の撤去作業が始まった。
2011年、高校生だった僕は、まだIKEAもゼビオも太子堂のヨークも無かったあすと長町大通りを自転車での通学路としていた。
高校1年生の頃は本当に何もない通りだった。2010年の秋に出来た長町駅前のマクドナルドで人生初めてのアルバイトを経験した。スーパーが建ったものの、ほとんど開発が進みそうもなく、よくあるお店ばかりが並ぶつまらない通りになるのかなと思っていた。
震災が発生して数か月経って、広大な空き地ばかりだった大通りの一角に仮設住宅が建設された。ピーク時には約440人が暮らしていたそうだ。同時に大通りでは建設ラッシュが起こった。それからの変化は目まぐるしく、大きなフットサルコートが出来たり、近距離にヨークベニマルが2つ建ったり、市立病院が出来たりして、IKEAもあって、ゼビオアリーナもある、仙台でも随一のスポットになった。
街の急激な変化によって空き地はほとんどなくなり、今ではかつての風景を思い出せなくなった。たった5年半でこうも変わるか、というくらいに。
しかし、5年半も要したのだ。人々の暮らしが仮設でなくなるまでに、5年半。
僕は大学生になった。大学への通学路でも同じようにあすと長町大通りを使っている。ここ5年半、ほぼ毎朝僕は仮設住宅の前を通って暮らしてきた。だからどう、とは軽々しく言えない。きっとあの中にいた人たちだけが知っている年月が間違いなくあって、僕は5年半もの間、ただ通過してきたにすぎない。
今日もまた、長町の仮設住宅の前を通った。向かいには高層のマンションのような災害公営住宅が建っている。
きっと仮設住宅が解体された後には別の建物が出来て、少しずつこの風景を思い出せなくなってしまうだろう。だからこそ、ちゃんと覚えているうちに書いておきたい。
この5年半、どんなことがあっても、この場所を通ると原点に立ち返ることができた。何事も無かったかのような生活を送り、何も出来ていない自分に腹が立つこともあった。不甲斐ない自分を、この場所が支えてくれていたような感覚すら持っている。「忘れる」でも「思い出す」でもなく、ずっとそこにあったのだ。仮設住宅がある風景が僕の日常だった。それが良かっただの、悪かっただの、書き始めるとどうも上手く表現することができないけれど、今はありがとうとおつかれさまを言いたい。
2016年10月25日撮影。工事のための囲いがなされている