そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

さみしくないからそばにいて

今週のお題「応援」

 

ここ数ヶ月のことはほとんど覚えていない。開き直りでも弁明でもなく事実だけれど、その事実こそが開き直りや弁明や言い訳になるのだろうと思う。悲しいも寂しいもない。鏡張りの部屋にいるみたいだ。広いのに狭くて、見えるものは自分だけ。うんともすんとも言わない。悲しませたくないから言えない。壊れたことにして買い換えるのは楽だけれど、直さなくては。部品を探す。どこに売っているか分からない。ぜんぶ自分で作るのかもしれないし、生産が終わった型番なのかもしれない。他人に刃を向ける覚悟はないのに自分がどんどん鋭利になっていく。鑢(やすり)はどこにあった、いや鉋(かんな)が先か、絆創膏が先か。治りかけはもろい。言いたいことはもうないのかもしれないし、自分に意志たるものが存在しない気がしてくる。そんなことじゃ、と思う。

 

長いパラグラフの文章を書くのがあまり得意ではないから、普段はすぐに改行をする。取り留めのないことしか書いていない。一文一文に繋がりがなく、大枠もない。ただ思いついたこと、目にしたものを書いているだけ。短い番組が連続で放映されている夕方のEテレみたいなせわしなさだと自分で思う。コーヒーから出る蒸気がどうして茶色じゃないのか、子どもの頃は不思議だった。答えは知らないけれどそういうものだと悟った今でも、わからないことはたくさんある。知りたいことがある。わからないことのわかりかたを探している。

 

睡眠用のホワイトノイズを聴きながら読書をする。ホワイトノイズは集中力を高める効果があるらしい。できれば静かな空間で本が読みたいけれど無音状態が作れないから、あえてノイズを発生させて他の音を打ち消す方法を試してみたくなった。いつもは本を読む際に音楽を聴いていたのだけれど、どうしても音楽の方が耳に入ってしまって読書に集中できない。YouTubeでホワイトノイズと検索し、一番上に出てきたものを再生した。まるで飛行機の中にいるような音がする。ホワイトノイズを倍速にしたらどう聴こえるのかが気になった。もしかしたらとても速いノイズが聴こえるかと思ったが、何倍速にしてもノイズは速くならなかった。どうにか速いノイズが聴きたいなと思ってしまい、読書どころではなくなった。僕の集中力はそんなものである。反対にホワイトノイズの再生スピードを遅くしてみたら、遅いノイズが聴こえた。遅いノイズはあるのに速いノイズはない。いつかミサイルの中にいるときのような速いノイズを聴いてみたいと思った。それから、ミサイルには乗りたくないなと思った。

 

ずっと読みたかった本が仙台に新しくできた「曲線」という本屋に置いてあったので購入した。曲線は本当に良い本屋で、そういう場所があることを誇らしく思う。応援したい気持ちと自分の購買能力がなかなか追いつかなくて、あんまりお金を落とせていないのが心苦しい。本はできるだけ好きな本屋で買うことにしていて、この「曲線」と、もうひとつ仙台にある「ボタン」という本屋と、盛岡にある「さわや書店」を主に使っている。「曲線」は店内にちょっとしたカウンタースペースがあって、コーヒーやチャイを飲むこともできることが気に入っている。「ボタン」は小さな店内に自分好みの歌集やZINEがあってうれしい気持ちになる。「さわや書店」は盛岡のやや大きめの書店で、「曲線」や「ボタン」にはないコミックや新刊はだいたいここで買う。本はどこで買ったっていいからこそ、好きな場所でご飯を食べるように、好きな場所で本を買いたい。

 

買った本は岸政彦の「断片的なものの社会学」。5年前に発売され、紀伊國屋じんぶん大賞2016を受賞した一冊だ。社会学者が研究の中で実際に直面した、分析も解釈もできないことについて綴られている。著者が憶えていて書き残そうと思ったエピソードは、何気なくて、なのに強烈な匂いがして、くらくらする。帯には「人の語りを聞くということは、ある人生の中に入っていくということ。」と書いてある。この短い読書の間に、僕はいくつもの人生の中を覗くのだろう。話は変わるが、よくシリーズ物のゲーム実況動画を見ている。Grand Theft Autoで難解なミッションをクリアする動画。Human: Fall Flatの協力プレイ動画。テーマパーク運営ができるPlanet Coasterの攻略動画。のめり込むように動画を見て、時には歓声をあげ、本当のことのように落胆する。ゲーミングPCを持っていないから見ることしかできないその世界に自分の夢が詰まっているような気がすると言ったら、もっと現実を見たほうがいいと思われるだろう。ただそこには快感がある。現実であれ仮想であれ、何者かの中に入り込み、起きた出来事を追体験することの気持ちの高ぶり。

 

先日、祖母の誕生日を祝うために近所のお店でご飯を食べた時に、父と母の若い頃の話になった。その際、父の口から自然と友達という言葉が出て、少しだけ不思議な気持ちになった。というのも、父の友人を誰一人として知らないからである。きっと若い頃は友達が多かっただろうに、今となっては全く話題にも出て来ず、存在を認識したことがない。きっといるのだろうけれど知らない。女性の友人となるとますます想像がつかない。父はあまり自分のことを話さない。たまに話してくれたいくつかのエピソードを繋ぎ合わせて、僕は父が父でなかった頃の人生を思い浮かべる。父は応援部に入っていたらしい。父はバンドをやっていたらしい。父はいつまで友人がいて、いつから会わなくなったのだろう。父の人生に友人がいらなくなったのはいつからだろう。いや、もしかしたら友人と隠れて会っているのかもしれないし、たまに電話をしているのかもしれない。そんなことを思いながら眠ったら、もう数年会っていない友人と再会する夢を見た。

 

ホワイトノイズがあるからといって読書に集中できるわけでもなく、僕の意識はそこかしこへと移っていった。文の中の物語に入り込んだと思いきや、その中の一単語から自分の記憶を引き出し、頭の中の物語を書き進めてしまう。その度に本を閉じて開いてを繰り返すから、ページはちっとも進みやしない。めずらしく快調に本を読み進めたとして、ふとホワイトノイズの音が気になってしまうこともある。飛行機の機内のようなその音は、確かに意識を遠くに飛ばすのには最適だが、僕が現在いる場所は自室であって空中ではない。しかしマンションの5階であるから、空中といえば空中なのかもしれない。そもそもどこからが空中なのだろう。僕は今、椅子に座っていて足が床についていない。たとえ椅子が地面に接していたとしても、僕の身体は地面に触れていないのだから、空中にいることになるのだろうか。Googleで空中を検索する。空中とは。大空の中。大空とは。広々とした大きな空。空とは。大地の上方。上方とは。ものの、それより上の方。マンションの5階は大地よりも上方にある。ここは空中だ。

 

僕は今日も空中にいて、いろんな方法で誰かの過去に入り込んでいる。誰かの力になりたいと願うが、今はどうしたってその余裕がない。空と地面、自分と他者、空想と現実、その境目はどこにもないように思える。ただ、健やかさを思えば確かなる実体を取り戻したく、いよいよ今週病院に行くことを決めた。