そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

みえないもの

東京に行ってからというものの、僕の中にある物欲の獣がぱたりと動きをやめてしまっている。あの街には色々な物が色々な建物の数フロアに渡って、同じような顔をして並んでいて、でも私がベストじゃないです、この街で一番良いものはまた違う建物にあります、みたいな風にしゃべっている。この街で一番良いものは見ていないが、おそらく、この街の外にある広い世界にはもっと良いものがあります、と教えてくれるのだろう。

たくさんあるうちから一つを決めるのは覚悟がいるし、難しい。だからこそ、選ばない、動かないといったコマンド操作にて僕の暮らしは成り立っていて、仙台でぬくぬくとモラトリアムの延長戦をやっている。でもそろそろ、PK戦なりフリースローなり、決着がつくところまで来てしまっているのは確かで、別に人生がトーナメントだとは思ったことはないし、勝とうが負けようが続くけれどできれば勝ちたいのも確かで、鞄を買ったり時計を買ったりしたい。

無数のショーケースを一度見たら、あとはその場に行かなくとも選択肢に加えられる。地方に暮らすということは、数多のみえないものと向き合うことなのではないかと思う。勿論、見えているものもたくさんあるし、それだけで生活も出来なくはない。けれど僕たちは、ここにないものをたくさん知ってしまっている。それを選べることを知ってしまっている。不可視なものは幻想部分も含んで像を成すから、ここにないものはどんどん肥大化して、理想を孕んで、見えているものとの比較は困難になっていく。みえないものをしっかり見ないと、僕は僕の街では暮らせない。

ここにあるものだけで十分だという気持ちになることも、ちゃんとある。みえないものと見えるものを平等に、できれば少しだけ、見えるもの寄りになって向き合うこと。目の前のことをちゃんと受け止めること。マンションと田んぼと戸建と高層ビルと空き地と平屋がごっちゃになった景色を見ながら、僕の欲しいものはたぶんここにだってあると思った。