そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

あなた方がやっていることは批判ではないということ

あなた方がやっていることは批判ではないということ。批判*1と非難*2、批判と否定*3、批判と中傷*4は違うという、そういう言葉尻の問題では無く、スタンスの問題なのだ。

やってられない。やってられないのは僕に関係のない社会の話なのだけれど、関係がないとはいえ地続きのような気もするから怒りは収まらない。やってられない。

バイトして頑張って貯めたお金で中古の軽を買った女子高生が、祝福のリプライばかりだったのになぜか「炎上した」ということにされている世界線で僕は何をして生きていけばいいのか、って思ってしまう。関係ないのに。

 

事実関係がうまく伝わらないと、この気持ちも伝わらないと思うので、簡単に解説する。

「掛け持ちのアルバイトなどで稼いだお金で女子高生が車を買って納車の様子をツイート」

⬇︎

「すぐに拡散され、賞賛のリプライが相次ぐ(もちろん一部では批判的なコメントもあったけれど、ポジティブな反応が大多数で、全くもって炎上はしていない。ただし、女子高生の個人情報を特定しようとするツイートもあるなど、本人の想定以上にネットの反響があったのは事実)」

⬇︎

「その後なんらかの事情により女子高生がアカウント削除(削除理由は不明だが、拡散やバズを目的としていないツイート主が予想以上の反響によってツイート削除・アカウント削除をするのはよくある現象)」

⬇︎

「その事実を知った人々が『JK炎上』というキーワードを使ってあたかも車を買った女子高生が炎上したかのように仕立て上げトレンド入り」

⬇︎

「なんで炎上したかわからない!みたいなツイートがめちゃくちゃ並ぶ(だって炎上してないんだもん)」

 

という流れである。

一言で言うとこれ。

もはや誰を叩いて何を敵としているかわからないんだけれども、こういうことは結構インターネットでは起きていて、ソースや出典よりも話の面白さやセンセーショナルさを優先する現代っぽい寓話である。と同時に、こういう人たちのツイート履歴を見てみると「マスコミは嘘ばかり!」とか言ってたりして、おいおい…という気持ちになる。何を敵としているのかがわからないが敵を作ってぶっ叩きたい人間ばかりが増えている、あいまいな善悪の判断をもって正義とし、悪を蹴散らそうとする人々の多いこと。

 

もちろん本物の炎上はさらに怖いし見ていられない。最近、若い女性のサッカーファンのアカウントが執拗な攻撃に晒され全ツイート削除する、ということもあった。その若い女性ファンは応援歌に乗せた自撮り動画やスタジアムを訪れた様子をコンテンツにしたYouTube番組などをアップしていたのだが、「真面目に応援しろ」「サッカーを利用するな」みたいな、本当にわけのわからない非難を受けていた。

もちろんツイート削除、アカウント削除ってだけで判断する必要はないけれど(本人の意思や他の事情もあるだろうし)、単純に彼女に対する執拗な攻撃は決して正当化できるものではなかったし、見るだけで気分の悪くなる不快で非建設的な意見だったことは事実で、そんなものが毎日自分宛に届いてたら間違いなく精神をおかしくしてしまう。

 

寄って集って「新しい悪者」を探そうとしているように感じる。テレビも雑誌もネットもリアルも。「新しいあおり運転の映像を入手しました」なんのために?「実はこの人逮捕歴あります」それで?「炎上覚悟で嫌いなものを言う」やめてくれ。「あいつらマジ礼儀なってないな」礼儀とは?

自分はできるだけそういう波に乗らずに「好きなこと」「良いと思ったもの」を表明しようとしているが、どうしても今書いている文章のように「言わなくていいこと」が自分の中でも浮かぶ。今僕がやっていることはなにかを叩いている人間とそう変わらない振る舞いなのかもしれないと思うし、そう見られてしまって仕方ないものである。

炎上とは?私刑とは?という部分には数年前から勝手に心を痛めている。じゃあインターネットを離れればいいのでは?と思うけど、実生活でも気に入らない人間を有無を言わせず否定したり無視したりする、みたいなことが会社やらイベントやらであるのでこれはインターネットだけの話ではない。

で、そんなの見なくていいのに見てしまうのは他者の評価や発言を気にし過ぎるが故の自分の問題でもある。何も気にせずに肯定をして目の前の生活をやっていくわけにはいかないのか。

肯定をテーマに今週は2つ、自分が本当にいいと思ったものに関するブログを書いた。

村田青葉『ツーカー』(初演) - 銘々と実損

For Tracy Hyde『New Young City』 - 銘々と実損

両方とも作者からリアクションをもらった。俺は素晴らしいものを多くの人に届けたいと思う気持ち以上に、好きなことに真剣に向き合って何かを残した人を褒め称えていたいと思っている。

好きなことをやって生きていくのは難しい。好きなこと自体はお金を生まないことも多い。好きなことをやるためにたくさんの嫌なことを経なければならない。いろんな障壁がある。才能や努力と現実の力量との折り合いもある。

それなのに、「好きなことやっていていいね」と羨望を通り越して嫉妬の目で見られることがある。これは本当に意味がわからない。好きなことを諦めたほうが偉い、好きなことを続けるのは卑しい、みたいな風潮がある気がしている。どう考えたって、好きを貫いて生きている人間は尊い。たとえばYoutuberの作業量とメンタル、とんでもないからな。仕事と掛け持ちのミュージシャンの凄さを知ってるか?

好きなことをやっている人を応援したい。肯定したい。これは綺麗事のようで本心である。先述の『ツーカー』の作者が電話をくれた。「演劇やってて良かったなと思ったよ」と彼は言った。嬉しかった。受け手として、リスナーとして、観客として。そういう瞬間にたくさん出会いたいと思っている。

作品だけでなく、社会を肯定し応援したい。できればポジティブなことだけを言っていたい。しかし今、どうしても社会を肯定できない面がたくさんある。

何かを批判したい気持ちはよくわかる。しかし、あなたの行為は本当に「批判」ですか?と首を傾げたくなる。もっと簡単な言葉で言えば、「相手に今よりも悪くなってほしい」という悪意の振りかざしがあまりにも多いと感じている。それは批判ではなく中傷である。

批判とは、「良い所、悪い所をはっきり見分け、評価・判定すること。」である。さらに、「物事に検討を加えて、判定・評価すること。」である。この意味において現代で正しく批判を行えている人間は極めて少ない。みな冒瀆や中傷をしている。

社会をよくしよう、生活をよくしよう、自分の暮らしをよくしよう、と全く思っていないのでは?と思う人々の行動があまりにも多い。中傷で誰が得をするのか。全体的な便益につながるのか。

批判を禁じたいのではない。間違いがあるのなら、間違いを指摘し訂正することは社会にとって有益である。しかしほとんどの人間が、正しい批判のやり方を知らないと感じる。さらに、批判を受ける側も批判を受ける準備が出来ていない、すべて否定と捉える向きがあるのである。

このことに気付いている方もたくさんおり、定期的に以下のようなコラムが書かれている。

30.決してネガティブな意味だけではない「批判」 - 間違えやすい日本語表現(澤田慎梧) - カクヨム

「批判」と「非難」の違いとは 後者は欠点を指摘するだけ - ライブドアニュース

 

そして、炎上に対する「私刑」もなくならない。

優先席に座った若い女性を「厚かましい」「隣国の人だと思う」と投稿した(若い女性に見せつけた)男性が本名や経歴も含めて晒され相当な勢いで叩かれている。彼の行為は許されないにしろ、いかなる私刑*5を行う理由にはならない。

しかし、ネット私刑が問題視されるようになってから長らく時間が経つが、私刑はなくならないどころか加速しているように見える。無関係の同姓の人間が誤った情報源によって被害を受ける事件も多発している。

なぜ無くならないか。これについては原因がはっきりしている。「私刑肯定派」が一定数いる。

これは2015年の記事だが、「全体の60%以上がネット私刑に理解を示している」という調査結果が出たこともある。私刑は仕方ない、私刑を受けて当然、と思う人間が非常に多いのである。

犯罪者に対する「ネット私刑」、6割以上が「理解」 J-CAST調査 : J-CASTニュース

私刑を肯定する理由は全く持ってわからない。人を裁くのは人ではなく法である。もし現在の法が罪を裁くのに不足しているのであれば、法改正に声を上げるべきだし、被害者への救済が少ないと感じるのであれば、より救済が大きくなるように活動すべきで、いずれにしても私刑の理由にならない。

池袋駅で母子が80代男性が運転する車に轢かれ死亡する事故が起きた。この80代男性は逮捕されなかったこともあり、男性に対する私刑が激化している。

なぜ逮捕がなされていないか。逮捕されていない理由は「罪証隠滅の恐れ」「逃亡の恐れ」がないからである。これはおそらく、そもそも逮捕がなぜ必要なのか、逮捕とは何かを人々がよく理解していないから起こる齟齬である。被疑者に逃亡などの恐れが無いため在宅捜査とし、後日書類送検を行うことは珍しいことではない。

もちろん、4月に事件が起き、9月になった今も書類送検がされていないことによって、不信感が募るのもわからなくはない。いずれにせよ刑事事件として処理され正当な手続きを踏むであろうし、逮捕を行わない・書類送検の有無を決めるのは被疑者ではない。もし手続きに正当性が無いと感じたならば、より正しくなるように動くべきだ。たとえば厳罰を求める署名活動は必要な行為であろうし、私刑よりもいくばくか有用な行動ではないか。

 

かつての時代のほうが理不尽なことは多かった、と言う意見に対しては、たしかにそうだと思う。ただ、的外れな非難、憂さ晴らし的な中傷、過去がこうだったからという慣習的な否定が溢れている中で、もっと「なぜ批判をするのか」「それは批判ではなく非難や中傷になっていないか」「なぜ私刑をするのか」「相手にどう良くなってほしいのか」「自分は社会をどうしたいのか」を考えていくことが現代に生きる我々にできることではないのだろうか。

ということを多くの人が思っているだろうに、なぜ中傷も私刑もなくならないのであろう。中傷や私刑がエンターテインメントと化しており、娯楽として正当化する向きがあるのである。

肯定や称賛でもって社会を変えることは僕の人生の目標である。時々どうにもならない気持ちになってしまうし、社会と戦う必要はないのではないかと思ってしまうのだが、身の回りの生活よりも遠くに目がいってしまう性分なのでどうしようもない。ただこうやって時々気持ちが爆発するだけである。

 

 

*1:批判とは、物事に検討を加えて、判定・評価すること。

*2:非難とは、相手の欠点や過失を取り上げて責めること。

*3:否定とは、そうではないと打ち消すこと。また、非として認めないこと。

*4:中傷とは、根拠のないことを言い、他人の名誉を傷つけること。

*5:法によらず、私人が勝手に加える制裁。リンチ。

Copyright © 2017 そこが海ではないとして All rights reserved.