そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

2025年4月東京旅行記①

三月のある日。暮らしているマンションのゴミ置き場に、クリーニング店のランドリーバッグが捨ててあった。おそらく引っ越しをする人が捨てて行ったのであろう。たしかに、クリーニング店というのはたいていローカルな店舗展開をしていて、県外への転居であれば引っ越した先にそのクリーニング店があることのほうが稀だろう。新生活とは、住んでいた土地のクリーニング店のランドリーバッグを捨てて、あたらしい土地のクリーニング店のランドリーバッグを手に入れることなのだと思った。

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東京国立近代美術館に開館直後に行くと、たくさんの人がすでに展示室にいたけれど、東京には美術に関心のある人が多いのか、東京には単純に人が多いのか、自分には判断がつかなかった。

ヒルマ・アフ・クリント展」を見た。スウェーデンの裕福な家庭に育ち、職業画家として活動する一方で、スピリチュアリズムに傾倒し、抽象絵画を数多く残したヒルマ・アフ・クリントの、アジア初の大回顧展だ。自分は人よりも抽象的な絵や図形を読み解く力が弱いらしく、そこに書かれてあるものが、何をモチーフにしているかわからないことが多い。わからないから考えるのだけれど、考えてもわからない。絵だけでなく、たとえば植物の違いとか、花びらの違いとかがわかっていない。だから自分からしたら、かなり多くの絵画は抽象的なものの中に含まれてしまうのだけれど、ヒルマ・アフ・クリントの絵は、ある程度の規則性や構造、頻出するモチーフや色があり、絵画であるのに動画的な鑑賞ができると感じた。何度同じ絵を見ても発見があった。絵画が動いているかのように鑑賞空間に広がり、映像インスタレーションを見ている時の感覚に近くなる。そうなると考えなくてよくなるので、自分としては心地良かった。

東京国立近代美術館では「フェミニズムと映像表現」という展覧会をここ半年くらいやっていて、その中で『遠藤麻衣×百瀬文《Love Condition》』がという映像作品が展示されている。十和田現代美術館で個展を見てから百瀬文さんの映像作品がとても好きで、できる限り観に行きたいと思っている。この作品は2人の作家が粘土をこねながら、「理想の性器」についての対話を繰り広げる映像で、1時間以上あった。テーマがテーマだけに、監視員の目もあって数分しか見られなかったが、性器という不変で絶対的なものが、対話によって鮮やかに形を変えていき、最終的には決まった形すら不要になっていく過程は非常に興味深かった。こういうものをもっと見たい。

下北沢に移動して、BONUS TRACKで「あの頃のジブンに届けたいコトバ展」を見た。展示のタイトル的にはそこまで好みではないのだけれど、柴田聡子さん、MONO NO AWAREの玉置周啓さん、長濱ねるさん、宇垣美里さん、空気階段など、自分が特に好感を持っている方々の直筆の手紙が展示されているので興味を持った。結果、行ってよかった。直筆の手紙にはパワーがある。過去の自分と今の自分と未来の自分、私たちは3人チームだよと綴ってくれる柴田聡子の筆致にグッと来た。連続性を持ったまま変わり続けている人の言葉は強い。たとえば自分が過去の自分に手紙を書くなら、どの時期に書くのだろうと考えてみたけれど、手紙がなくても今の自分がうまく行っているのだから、手紙いらなくない?という結論になった。