そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

シールの台紙

思えば生きていて自分で何かを決断したことがない。高校も大学もその先も、誰かがあつらえてくれた選択にただ承認印を押すようにして進んできた。あの人がこう言うからこうしたほうがいいのだろう、この人も進んだ道だから間違いないだろう、と。私は私の人生を決めたことがない。

私には意志がないのかもしれない。ただ承認印を押すだけで何も作用していない。もしかしたらこの感覚は、常に何かを決断してきた人たちには伝わらないかもしれないと思って怯えている。私は何も決められない。どうして?

何かを定めることが不安だから?決めた選択に自信を持てないから?それもあるかもしれないが、一番は自分のやりたいことがあまりないことに起因する。あまりない。ちょっとはある。ぼんやりとした、具体性のない、なんとなくのものはあった。東京の大学に行きたいかもしれない、サッカーの実況がしたいかもしれない、エンタメ業界に進みたいかもしれない、みたいな決断のかけらになりそうなものは自分の中にもあった。ほかの人たちはこのかけらを春のパン祭りのシールみたいに懸命に集めて、それを台紙に貼りつけて何かを得ているのかもしれないと思う。もしくは、一瞬で得点が貯まるのか。私はいつも台紙に中途半端な数が残るだけだ。ありったけの決断のかけらを持って一歩目を踏み出すことはある。しかし、二歩目が出る前に燃料不足になる。こうしたい、と伝えたあと、誰かの声にいつも怯んできた。いつしか自分の気持ちを伝えることはどんどん少なくなった。

誰かに決めてもらった道の先でも、あとで、別にやりたいことじゃなかった、と言えてしまう。承認印を押しただけだしな、と。お前が決めたんだろう?と言われると、いつも自分の心がざわめく。書いていてどんどん苦しくなってきた。書けばそれが事実になる。私は本当に何かを決断したことがないのだろうか。

そうではない。ただ、妥協の種、言い訳の切り口をみつけるのがうまいだけだと思う。いつでも非常口を開けておいて、怖くなったらすぐ逃げられるようにしている。その言い訳はほかの誰かに通用するものではないけれど、自分の心の安寧にはなる。妥協のポイントを集めるのはとても早い。

それでも、何かに縋るように、自分のやりたいことを必死でかき集めた1年だった。職場を退職して、大学を卒業して、東京に面接を受けに行ったり、いろんな人と会ったりして、この仕事がしたいかもしれない、と少しだけ見えた直感を信じて就職して、破れて、そのあとはメディアがやりたいとか、ラジオがやりたいとか、やっぱり東京に行きたいだとか、自分から生まれた何かを決断にできるように、ありったけのシールを集めた。だけどどれも簡単に意味のない紙切れになる。もっと我を通せばよかったとか、これは集めても何にもならなかっただろうとか、いくつもの期限切れの台紙を見つめて思う。

その上でまた今、何がしたいか問われて、また新しいものを出さなきゃいけないのかと焦る。

流されてここまで来た自覚はある。今は2週間に1度の次の通院が待ち遠しくて仕方ない。