そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

思考停止ジェンガ

部屋を整理していたら3年前に就活のために撮った証明写真が出てきて、なんでこんな遠回りしてるんだろうとやるせない気持ちになる。俺はこの遠回りを肯定しようという意気は毛頭なくて、ただひたすらに自分の弱さだと思っている。顔は変わっていないつもりでも、3年前の俺はちょっと若い。でもお前もう転んでるんだよ、って囁いて机の上に置いた。

俺のいた組織が上手くいった試しがない、というのは小学生の頃からずっと抱えている絶望の根源のようなもので、必死に頑張っていたつもりの職場も今もうしっちゃかめっちゃかな状態になっている。いろんな人から不満が噴出して険悪に険悪を積み上げた不安定なジェンガみたいになった。そろそろ崩れるだろう。ジェンガは一度ふらつくと二度と安定はしない。この喩えは自分の人生みたいだなと思った。本来なら大切なものを支えるはずの部分をどんどん取り除いて、バランスが悪い状態なのに新しいものを積み上げようとしている。曲がって、歪んで、高さだけは一人前になって。僕は僕の人生を打開する術をもう知らない。崩れてしまうのを待つだけだ。

絶望ばかりもしていられないので歯を磨き、生活のことを考える。定期券を更新した。半年経った。誰も褒めてくれるわけでもない、当たり前以下の半年が過ぎた。働いている。何にも偉くない。得たものもあった気がするけれど、失ったもののほうが多い気がする。次の半年のことを考えると眩暈がする。昨夜は死にたいくらいの気持ちで偏頭痛と口内炎と各種頭の痛い案件を抱えながら眠ったけれど、起きたらまだ大丈夫だったから、大丈夫なのだろうと思い込む。そのあたりのジャッジに自信はない。意味もない。こういうのを漫然としていると言うのだろう。睡眠は僕の限界を引き延ばして、今にも崩れそうな僕を少しだけ立て直してくれる。あんまり意味はないけれど。