そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

語り得ぬ眼差しは誰のため

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ちゃんと海だった。

 

友人たちの新生活、すなわち新社会人生活が始まった。最前線で戦う友人たちを称えたい。 自分に出来ることといえば、Twitterで労いのリプライとハートを送ることしかないけれど。彼らが傷ついたら真っ先に駆けつけたい。いろんな人に救われた自覚が、いろんな人を救いたいという意志に変わる。

 

久しぶりに生々しい海を見た。その周りに今も転がる建物の土台や生活の跡、あの日の風景が何度も何度も何度も何度もフラッシュバックする。正確に言えば3月15日以降の風景だ。俺は4日も「動けずに」いたのだから。どうしてあの4日を永遠に引き摺っている?

 

たった1人で雑誌を自主製作・出版した方の話を聞いた。「ひとり」で戦う辛さが垣間見えていたのが良かった。自分をどう奮い立たせるか、空っぽな自分で何を残すか。複数人で戦えたら、組織で戦えたら、と思うこともあっただろう。それでも個人戦を選んだ理由が、雑誌や語る言葉から感じられる。たとえば絵画や小説などの芸術作品を残すように、雑誌を作ったっていいじゃないか。あの雑誌は彼の作品であり、人生なのかもしれない。しかし原動力はなんなのか?と思ったところで、「別れた彼女に見せつけるため」という話が出てきて、最高だなこの人、と思った。戦い方が自分にかなり似ているかもしれない。

 

自分の戦い方と戦う場所について考えている。俺は4月で絶対に結果を出す。結果とは何か?目に見える評価と視聴回数であり、人々の認識を変えることである。もっと詳しい「結果」すなわち「目標」については、対象物ごとに設定する。目的は、自分が具体的にこれからどう生きていくかを探るためである。今までは「趣味」「道楽」として動画を作ったりブログを書いてきた。というか、そういう「逃げ道」を作ってきたように思える。今はもう逃げる場所がない。進むだけだ。生きる道は数少ない。切り拓いていくために、自分の持てる全てを出していこうと思う。