きょうは珍しく電車移動。
ゆっくりと外を眺めながら、こういう奥ゆかしさみたいなものが必要だよなあと自分に対して思う。
最近はとてもガツガツしすぎている。怒りも喜びも前面に出しすぎている。
会いたい人がいれば、原付をかっ飛ばしてすぐ向かった。いろいろなことを全て文章にした。
原付というものは、スマホを見れない、音楽も聴けない、本も読めない、できることといえばただ風を浴び続けているだけで、それはすごく気持ち良いのだけれど、目の前の景色を覚えていないくらいに早く通り過ぎてしまって、そのスピードでぼとぼとと感受性を振り落としてしまっている気がする。
もちろんその程度で失われてしまう僕の感受性なんて大したことがないのだけれど、大切にしたいものを大切に出来ないことが少しさみしい。
代わりに手にした移動速度で、僕はどこへでも行けるだろう。行けるだろうけど、行ったところで僕に価値などあるんだろうか。
弟が、確か自分が中学か高校時代につけていたマフラーをして出掛けたのを見送って、彼にマフラーを買ってあげなければな、と思った。
でもその前に、自分も今年身につけるマフラーや手袋がないということに気付く。この電車を降りたら、新しい2人分をさがしに行こう。
人にプレゼントしたものは、どれくらい使われていて、どんな風に捨てられているのだろう、ということを考える。
少し前、先輩に頂いた靴下に穴が空いた。勿体なくて使えないなあと思っていて、だけどすごく素敵だったので、少しの葛藤を乗り越えて履いていた。そして、穴が空いた。
頂いたものが使えなくなる瞬間は、思ったより辛かった。辛かったけれど、そのあとすぐにその先輩に会えて、それが本当に良かった。
贈り物の物自体が使えなくなってからも、ちゃんとその人との関係が続いていれば、それで十分かもしれない。
自分に何らかのレッテルを貼られてしまうことに、今さらながら慣れない。自分も他人に対して時たまそういうことをしてしまうから、ますます嫌気がさす。
僕は何者にもなれないけれど、そういうふわりとした存在に憧れている節もあるのかもしれないと思った。決めつけられるとこわくなる。
「オタク」ではないし、「眼鏡が本体」ではないし、「YouTuber」ではないし、「ブロガー」ではないし、「頭が良い」わけでもなく、なんだろう、もっとこう、あるじゃん、他の形容がさ、みたいなことを思っているけど、じゃああなたはどんな人間ですか?と問われた時に回答がない。
就活の時は何と言っていたんだっけ。お前は誰だ!とよく問われていたはずなんだけど。この半年でもまた自分がどんどん変わるので、あの時の正解は信用ならないものになっている。俺は誰!
まずいぞ、お前は星野源のやり方に憧れているのだから、星野源ばりのセルフプロデュースで、いろんなことやっているけどちゃんと社会的に認められる存在にならなくてはいけないんだぞ、と言い聞かせる。
最近の星野源が発する様々にはあまり共感できないけど、あの人のやり方はとても正しいと思う。「才能がないから、やる」という尊さ。その分ちゃんと努力をしなくちゃいけない、やりたいんだったら。さて俺は何がやりたいんだっけ?何になりたいんだっけ?
iPhone7を買った。丸1ヶ月も携帯電話の無い生活をしていたのがもう信じられない。
たくさん写真を撮って、たくさん文字を打って、たくさん音楽を聴くことにする。スマホはもはや俺の臓器、とはよく言ったものだ。でもなんだろう、臓器って感じがしないんだよな。
別に無くても生きていけることはわかった。不健康にもならない。心臓とか肝臓とかとは違う。
と思って「臓器」を調べたら、臓器とは「動物の器官のこと」であって、広義には脳やら血管やら皮膚やらも全て「臓器」であるという。今まで勘違いしていた。内臓器官のことを特に臓器と呼ぶのだと思っていた。(もちろんそういう分類もある)
だとしたらiPhoneは臓器だ。でも器官のほうが正しい。僕の血であり肉であり皮膚であるiPhoneよ。これから僕とともに生きてくれるiPhoneよ。
こいつとお別れする時に、僕はどこでどうやって過ごしているんだろう。最低でも2年後。楽しく生きてくれるだけでいいなとちょっとだけ思った。そのための今日。そのための今。
お前をしあわせにしてやるからな。iPhoneに向かって呟く間抜けさが、21歳の僕の今。