そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

名前と誕生日が定める運命のようなものについて

名前が素敵なひとにすごく憧れている。

 

すごく尊敬していて大好きな友人に「瑞生(みずき)」という名の男がいるのだけれど、もう彼の素質といい容姿といい、しっかり名前からパワーをもらえている気がして好きだ。イケメンで聡明で快活で、それでいて人の痛みがよくわかる、神様みたいな奴だ。いつか広辞苑

みずき【瑞生】…イケメンで聡明で快活で、それでいて人の痛みがよくわかる最高な男のこと。

と載る日が来るのではと思うくらい、彼と彼の名前が好きだ。

 

前にここで熱く愛を語ってしまった「村田青葉」という演劇人の名前もすごく好きだ。

なんて雄大で、温かくて、強そうな、大地の恩恵を受けまくりそうな名前なんだろう。両親もわかってて名付けた感じがあってそれがまたいい。

 

他にも好きな名前の人はたくさんいるのだけれど、名前の他に誕生日もまた、その人の生き方を定めているような気がしてすごく気になる。

友人であり戦友であり、みたいな女の子がいる。彼女はいま、「少子化対策」「結婚・出産・子育て」というジャンルに深い関心を示しているのだけれど、彼女の誕生日が「10月10日」なのだ。つまり「十月十日」に生まれていて、やっぱり運命のようなものが人生にはあるのかもしれないな、と思っている。

 

ここからは僕の話になる。両親に心の中で土下座をしながら書くが、やはり自分の名前が好きになれない。

「駿」と書いて、「しゅん」と読みます。この下の名前で僕を呼ぶ人間はほとんどいない。みな名字で呼ぶかあだ名で呼ぶ。小中高と、「洞口って下の名前なんだっけ」が定番のネタであったし、「駿」と呼ばれない日々は今も続いている。不意に呼ばれれば、それが僕の名前であるとあまり認識できなかったりもする。

ありふれた名前で、同級生には同じ名を持つ人間が数人いた。名前が自分だけのものではない、という事実はそれなりに寂しかった。小学校で自分の名前の意味について調べさせられる、というイベントがあったけれど、両親からのアンサーとしては

馬が、好きだったから。

とわけのわからないことを言われた。

「駿」…すらりと背が高く、足のはやい馬。 すぐれてりっぱである。高くそびえている。偉大である。 すばやい。 

意味に対して自分の姿に腑に落ちる点がないのも、名前への愛を持てずにいる要因だと思う。足はあまり速くない。背が低い。優れていない。ってか馬じゃない。

 

名前に関しては複雑な感情を抱えているけれど、誕生日についてはちゃんと意味を見出せそうである。

12月12日に生まれました。両親の結婚記念日が6月6日であるというところからしっかりゾロ目を合わせてきたのが我ながら偉い。予定日は1週間ほど後だったらしいからなおさら偉い。

覚えやすさがとても好きだ。自分の誕生日が自分にまつわるものの中ではトップクラスに愛らしい。さて、本日は今年11回目のゾロ目デーなわけでありますが、次です、みなさん、ささやかに覚えておいてください。

 

でも、ネガティブなこともまた思ってしまう。これは自分の性質から来るものだ。

12、12とずっとくりかえすこの数字が、どこへも行けない自分を定めているような気分になる。歩けども歩けども、お前は3や5や8、ましてや9になど一生なれないのだぞ、と言われているような感じがする。

ただし数字には裏があるので、うれしい。1212と地道にくりかえして、大きな飛躍はなくとも一歩一歩進めばいいのだという気持ちも持っている。

 

歩みがのろい馬でごめんよ。少しずつ歩くから、いつか名前がちゃんと板につくような姿になれますように。やがて馬になるのかもしれないし。