そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

ゆるせない人

私は、たとえば大学を4年で卒業できなかったり、背が低かったり、男らしくなかったり、かっこよくなかったり、心の問題でうまく働けなったり、定職がなかったり、要領が悪かったりするときに、たしかにその瞬間、ごく狭い空間の中(今考えるとそこの多くはホモソーシャルと呼ばれる場所だった)で「弱者」としての扱いを受けたことによって、あらかじめ自分を低く見積もったり、必要以上に弱いものとして捉えていることがあった。

 


しかし、どう考えても、健康に働いている日本人男性の私は、誰かを傷付けてしまうことのほうが圧倒的に多い。差別する側、あるいは差別を黙認する側、自分の持つ特権に気付かない側の人間であることは疑いようがない。自分の浸っていた空間が非常に狭く、限定されていたことに気付いてからは、過度に自分を卑下することはやめようとしている。

 


特権を持っているのに被害者のふりをするのは、率直に言ってつまらない。『さよならたりないふたり』というお笑いライブでオードリーの若林さんが南海キャンディーズの山里さんに、「MCもやって女優と結婚するような強者(山里)が、ゴルフをやってるモデルに噛み付いて何が面白いんだ」と言っていたことを今でも思い出す。

 


被害者のふりというのは、つまらないだけでなく、有害であることが多い。あの出来事のあと、家族に怒られましたよ、と語る森元首相や、お気の毒に、と言った川淵さんのことを、私はどうしても許したくはない。常日頃、喩えようのない苦しみを抱えている人々のことを思うと、「そんなこと」と言った二階さんを絶対に許せない。

 


しかし、ジェンダー関連の話題が取り沙汰されるたびに、問題点をきちっと整理し、怒りの声を上げている人々に、今の私はフリーライドするしかない。勉強不足・時間不足と言い訳を口にするが、そもそも被差別の当事者であれば、そんな言い訳は思い付かなかっただろう。私は結局、誰かを傷付けて差別しながらのうのうと生きていられる立場なのである。前述した許せないという感情も、誰かの声に共鳴したものであるが、自分の中から深刻さを伴って出てきたものではない。

 


同時に、自分も誰かにとっての許せない人である事実は変えることができない。たとえばここで私がジェンダー問題を「わかっている」ように書いても、私だって加害者であり、何もわかっていない愚かな人間で、その愚かさを嘆くような自分語りもまた有害な被害者しぐさのように思えてしまう。私はただ、自分が正しいと思う言説にいいねのボタンを押すことしか、今のところできない。

 


私はもう弱くない。弱くないからこそ、この強さを何かに勝つために使いたくない。かりそめの弱さを晒したくない。差別に加担しないために、すぐに声を上げられるように学び続けたい。ここ最近考えていることはそれだけである。