そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

いっちゃん

 

通っていた小学校には2度クラス替えがあって、3年生のときと5年生のときにクラスメイトが変わった。学年に4クラスもあったので、2年間で築き上げた交友関係は3年生の春でほぼリセットされ、知らんやつと知らんやつと、顔見たことあるやつと知らんやつで新しいクラスが構成されてしまう。小学生なので、知らんやつでもある程度すぐに仲良くなれてしまうのだけれど。

そして我が3年4組の男子陣は、これでもか!というくらい未来の文系男子・オタク男子・ガリ勉男子を揃えた、ガキ大将もサッカー少年も野生児もイケメンもいない、相当に偏ったラインナップだったことを覚えている。こんなに運動できないやつ揃える?っていうくらいに揃っていた。小3〜小4のころの男子というのは、自分のできないことを少しずつ自認していき、できることを定めていく時期だと勝手に思っていて、他のクラスでは誰々がサッカースクールに入ったとか、地元の野球チームに大挙して入団したとか、もうドッジボールするのダサいからやめたとか、球技では勝てないと悟ったやつが水泳習い出したとか、運動はダメだから塾に通い出したとか、好きな女の子に年賀状送ってみただとか、まあ要するに、みんな同じだった矢印の向きと長さを少しずつ変え始める地点なのだ。しかし、3年4組、ひいては4年4組のメンバーは、そういう矢印の変化に取り残されたように、ドッジボールとか、警どろとか、まだまだやっていたいメンバーだった。寒くなったらみんなで俺の家に集まって、和室とリビングを総動員してみんなカードゲームで対戦していた。そういう子供みたいな遊びを継続していることを咎めたり疑問に思ったりする人が誰もいなくて、本当に平和なクラスだったので、僕も楽しくワイガヤやっていた。

 

そのクラスの中心に、いっちゃん、と呼ばれる男の子がいた。とても優しく、とても足が速く、それでいて、とてつもなく頭が良かった。自分も、それなりに勉強が出来るな〜と子供ながらに思っていたけれど、いっちゃんには全く歯が立たなかった。人生において勉強面で初めて圧倒的に負けた相手がいっちゃんだった。持久走も負けたし、それ以外のことでも勝てる気がしなかった。でも、いっちゃんに負けるなら仕方ないか、と思えるくらいに良いやつで、小3なのにナイスガイなのだ。小3なら、どんなにいいやつでもナイスガイには届かないのが普通だ。しかしいっちゃんは産まれながらのナイスガイ、とびきりナイスですこぶるガイだった。みんな彼のことを慕っていたし、彼の周りにはいつも友達がいた。

いっちゃんは習い事をいくつも掛け持ちしていて、1週間のうち水曜日しか放課後に遊べる日がない。だから自然と、水曜日はいっちゃんの日になった。なにがしたい?とみんなで聞くと、いっちゃんは「野球がしたい」と言った。僕たちは野球なんてほとんどしたことがなかったけれど、次の水曜日の放課後にはすぐ、近所の公園に集まって、10人くらいで野球をはじめた。おそろしくみんな下手だった。野球はおろか球技もろくにしたことがないメンバーだった。グローブは半分くらいの人しか持っていなくて、攻守交代のたびに貸し出した。ボールはゴムだった。それでもなんでか楽しくて、いっちゃんの門限までひたすらにボールを追いかけた。

いっちゃんデーは結構長いこと続いた。野球は最後までみんな上手くならなかった。いっちゃんジャイアンツを結成して他のクラスと対戦、みたいなことは起こるはずもなく、ただ延々とゴムボールを追い掛けるだけだった。それでよかった。あっという間に4年生が終わり、5年の春が来て、僕らはみんな別々のクラスになった。

 

僕たちは5年生になって、スクールカーストという戦場にみな放り込まれ、全員が紛れもなく下の扱いを受けて苦しんだ。いっちゃんだけはそれでも輝きを失わず、中学受験に成功して公立の中学に行ったらしい。いつの間にか水曜日はただの水曜日となった。野球はあれから1回もしていない。俺は5年のクラスで軽いいじめ(いじめに重いも軽いもあるかよ)を受け、クラスは荒れて担任が休職し、なんだかよくわからないうちに卒業した。そんな小学校生活のなかで、一番にいっちゃんとの野球のことを思い出してしまうのは、上も下もなく、争いのない日々が、クラスの真ん中にいるいっちゃんによって守られていたからじゃないかなと思ったりする。

いっちゃんはその後、俺と同じ大学の医学部に入った、ということを予備校のポスターで見た。ちゃんと医学部に入ったから、いっちゃんはやっぱり凄いやつだった。陸上を続けているらしいく足は今も速いのだろう。それできっと、今も優しいのだろう。小4以来まともに話していないし、きっと彼は俺のことを覚えてすらいないと思う。だからなんだ、って思うような話。