そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

一味唐辛子

 

はなまるうどんのかけ(小)を食べながら、昔の恋人のことを思い出していた。

その恋人は週に一度は必ずうどんを食べるという。そんなにうどんが好きならばと、一緒に行ったうどん屋に行って本当に驚いた。尋常じゃない量の一味唐辛子をうどんに入れていたからだ。

「そんなにかけて辛くないの?」と訊くと、「うん、辛いよ」と言った。そして、汗をかきながら、顔を赤くしながら、幸せそうに食べるのである。「いつもそう?」と訊くと、「うん、いつもだよ」と言った。

僕はうどんに唐辛子を入れない。そもそもうどんがそんなに好きではない。けれど、辛い食べ物が好きな人の気持ちも、うどんが好きな人の気持ちもわかっているつもりでいた。

自分が好きではないものを好む人がいる。全く違う習慣を持っている人がいる。このことは、生きていれば当たり前にわかることだ。たとえ長く連れ添った恋人であっても、別の生き物であると思い知る瞬間はいくつもある。

普段はそこに何の疑問も持たないし、むしろ自分にはよくわからないような行動を取る異性のことを、おもしろいと思ったり、愛おしく思ったりすることがよくある。異国の置物を収集しているとか、たくさんのTwitterアカウントを使い分けて様々な人格を操っているとか、登校拒否してるとか、造語の形容詞を連発するとか、中世の西洋文学を愛読しているとか。

それなのに、あのとき一味唐辛子を手にする恋人のことを、すこしだけおそろしく思ったのだ。相手への好意は揺るがなかったし、自分にとって都合の悪いことはひとつも起きていない。でも、何かが決定的に違うような気がした。

このような「わからない」を、おもしろいと判定するか、おそろしいと判定するかの基準は実に曖昧で、時期や相手によって異なってくる。昨日まで好意的に思っていたものが急に反転することもある。

出来るだけわかっていたいし、わかっていてほしい。わからなくてもいいから、それをおもしろいと思っていたい。そんな僕の願いも虚しく、いつの間にかおそろしくなることの多さよ!

判定は自分にも絶えず向けられている。僕がどの瞬間で恋人にとっておそろしい存在となってしまうか、どのタイミングでおもしろいからはみ出してしまうか、ひどく怯えながら過ごしている。

人はみな一味唐辛子の小瓶を持っていて、時に当たり前の顔をして、大量に振りかけてみせる。何も悪くない。何もおかしくない。僕は目の前にいるその人に、「美味しそうだね。今度やってみようかな」と言うだけでいい。

次こそは、といつも思う。いつ恋人が一味唐辛子を手に取ってもこわくない。大丈夫。僕は思い切って、かけ(小)に唐辛子を入れてみた。口に入れた瞬間、思いっきり咽せてしまって、僕の声がはなまるうどんの店内に響き渡った。

一味唐辛子、こわいです。