そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

何も考えないことを考えていた

 

幸せなら手を叩こう、と急に言われて戸惑ってしまった。どうして幸せである場合には手を叩くことを強要されるのか。その疑問には答えずに、幸せなら手を叩こう、と繰り返す。だからどうして。真っ当な説明をくれ。頼む。見かねた目の前の人間はこう言う。幸せなら態度で示そうよ。なるほど、幸せであることを意思表示するための行動として手を叩けと。これは選別だ。幸せかそうでないかを区別するものだ。幸せな者は手を叩き、不幸せな者は直立不動で哀しそうな目をすればよい。なぜ区別が必要なのかは分からないが、その先に何らかの分岐があり、幸せな人間とそうでない人間の道が分かれているのだろう。ならば僕も手を叩こう、と思った瞬間である。ほらみんなで手を叩こう、と言うのだ。みんなで?全員が幸せである事実はどこにもない。幸せな人間もいればその逆もいるだろう。なのにお前はみんななどという無責任なことを口走る。これは最初に思った通り、区別ではなくて強要だった。幸せの強制。クラップの奴隷。はじめから幸せでない者のことを想定していない。目の前の人間が僕を一瞥する。どうした、その手は。と言わんばかりの形相。僕は仕方なく手を叩いた。

手を叩いた後、足を鳴らし、肩を叩き、頬を叩き、ウインクをして、指を鳴らし、泣き、笑い、手を繋ぎ(ネタ切れじゃないか?)、飛び上がり、相槌を打ち(やっぱりネタ切れでは?)、僕は完全に疲弊してしまった。もはや幸せなど何処にもない。ただ目の前にいる人間の指示に従い続けるだけだ。鬼軍曹から次の指令が飛ぶ。「幸せなら最初から 幸せなら最初から」まさかのエンドレスリピート。こうして僕は再び手を叩き、足を鳴らし、肩を叩き、頬を叩き、ウインクをして、指を鳴らし、泣き、笑い、手を繋ぎ、飛び上がり、相槌を打ち、そうやってずっと暮らした。

幸せとはなにか。それは今も分からない。しかしここには繰り返しの生活がある。あれから何十周もしただろうか。鬼軍曹はついに老い、生き絶えてしまった。それでも僕は手を叩き続けている。いつか僕も繰り返せなくなってしまうだろう。今はまだ体が動くのだから、足を鳴らしたり、笑ったり、泣いたり、飛び上がったりしている。最後に誰かの手を握るとき、幸せだったなと思うのだろうか。

手を叩こう。理由はない。この生活を続けよう。僕たちはいつまでもクラップの奴隷。生きとし生けるものに喝采を。割れんばかりの歓声を。誰かを称えるために生きている。