そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

死んで間もない魚

 

ひたすらに才能が無いことだけが可視化されている。視力は悪いのにすごく見える。見える見える。見えすぎて切ない。俺には才能が無い。

 

切なくなる。ガラス張りの建物に映る俺の姿は歪んでいて、顔がはっきりとわからない。誰からもこんな風に見えているのだと思う。才能よりも努力が重要だとAは言い、努力も才能のうちだとBが言う。そしてCが口を挟み、Dが呟き、Eが嘲笑い、FやGや、その他大勢の音を聞きながら、俺は俺を思い出そうとするけれどうまくいかない。AtoZ全部俺。

 

才能とかいう言葉の具体性の無さが、才能という言葉を選ぶ人間そのものの愚かさを表出させていく。既存の表現の切り貼りによって俺は俺を形作るだけで、定型から逃れられないことに気が付いている。孤独も退廃も自己愛もテンプレート。交際も離別も憎悪もはじめから用意されていて、エレベーターの階数ボタンみたいに選べば目的の感情に止まるようになっている。

 

「冬は寒い」みたいなことだろ。俺が「死にたい」って呟くことは。人生はいかに直接的な言葉を使わずに「死にたい」を表現するかの大喜利だと思っている。何度でも何度でもフリップに向かう。本当に良い答えが出せた時までは生きていないといけないし、まだ良い答えが見つからないので生きることにしている。

 

こうやって誰の薬にも肉にも骨にもデザートにもならない文章を手癖で書いている。俺が他人ならばきっと読まない文章を書いている。俺の人生や言葉を評する人間は極めて少ない。誰の俎上にもいないからだ。企業には評価制度がある。中学や高校なら先生や同窓生の目がある。大学はこれまでの人生の中でもきわめて「他者の評価」が少ない場所だった。だからこそ承認を求めて学生団体やサークルやインターンや怪しいビジネスに向かうのだろうと思う。

 

俺は俺しか見えておらず、かつ、俺を見てくれる人間も次第に少なくなりつつある。数値化、定量化の難しいものに対して、誰かの声がいかに有意義であるかは今更言うに及ばない。あとはもう叫びだしたくなる気持ちだった。でも恥ずかしくて言えない核だった。俺を見てくれ!と叫ぶ前にまず俺は俺しか見ていないのだから。

 

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あんなことできたらいいなのあんなこと今では焼鮭食いたいとかだ

 

「二千百億五千八十二万六千メートル先、左です」

 

投げキッス真上へ飛ばし全身で浴びると触れられる法がある

 

「新しい顔をください」「送料が480円かかります」

 

お一人様ですか 煙草は吸いますか どうして笑ってられるんですか

 

 

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