10月20日は僕たち3人にとって、それぞれ特別な意味を持つ。
ある人にとって10月20日は、大切な人を失った日だと言う。
彼女はその時のことをゆっくりと語ってくれた。命日という言葉は、音の響きでは抱えきれないほどに重い。事の大きさに胸を衝かれ、話の中身はほとんど耳に入ってこなかった。滅多に見せないような真剣な表情だけを、今もはっきりと覚えている。
数年経っても、大切な人を救うことができなかった、という気持ちが拭い切れずにいる。自分が殺したのだ、と思うことがある。1日で何千人もの人の命が失われたこの街であっても、たったひとりの喪失を前に僕たちは途方に暮れてしまう。
深刻な空気を吹き飛ばすように、彼女は少しだけ笑った。「あの人がいたから今の自分がいるんだ」と言った。言葉は、未来と過去のどちらにも伸びていくように聞こえた。
ある人にとって10月20日は、自分の誕生日だという。
誕生日というものは意外と呆気なく終わってしまう。周りの人々にとってはいつもと変わらない。普通を特別にしたくて、ケーキを食べ、ろうそくを立て、ささやかな抵抗を試みる。僕もそれにできるだけ加担したいと思っている。誕生日おめでとう。
届かなかった手紙を読み返す。大したことは何ひとつ書いていなかった。届かなくて良かったなと思った。僕の言葉はどうだっていい。大切な人が生まれた日を幸せに迎えられることが何よりうれしい。それがどんなに尊いことかをこの街と僕たちが知っている。
このブログをはじめてちょうど1年になった。
僕は僕の喪失を埋めるために文章を書き始めた。そこに誠実さはどこにもない。停滞という椅子に腰掛けて、日々が実に多種多様な速度で変化するのを見ていた。振り返ると同じようなことを同じような自分で綴っていた。
ところが365日が巡った今、僕は明らかに去年と異なっていることに気付く。人はそれぞれの速度で回転していて、大きく回ったり、歪に回ったりする。極めてゆっくりとした速度であったけれど、僕も確かに回転し、再び10月20日に辿り着いた。
大切な日を思う時に浮かぶのはいつだって大切な人のことだ。あなたがいるから今の自分がいるんだと、こういう日だからちゃんと書いておきたい。
地球は太陽を周り続け、いつかと同じ場所に辿り着く。その度に僕たちは何度でも思い出し、何度でも悲しみ、何度でも出会う。