そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

形振り

 

僕には2人の親友がいた。このブログにも幾度か登場させたことがある。ひとりは中学の時の同級生の男で、もうひとりは大学に入ってから出会った女性だ。

親友と言っても、いつも行動を共にするとか、毎日LINEでやり取りをしているとか、そういう仲の良さではなかった。同じ宇宙空間に存在する惑星同士のように適切な距離感を保ちつつ、時々、魂を重ね合わせるようにご飯を食べに行った。ソウルメイトやら、類友やらと表したほうが適切かもしれない。

 

2人と僕の共通点といえば文学が好きなことと気分屋なことであった。趣味の話はほとんどしたことがなく、極めて身の回りに近いこと、もしくは全く自身とは繋がりのない遠い場所の話をよくしていた。彼らの話はいつでも魅力的で、だけども真ん中の部分、核心にはいつも触れられないような気がしていた。そういうミステリアスなところも含めて、僕は彼らが本当に好きだった。

そんな彼らと疎遠になってしまって半年が経つ。理由はいろいろと考えられる。彼らがSNSを全てやめてしまったことは本当に大きかった。けれども、いつだってLINEで連絡できる環境にはあった。そうしなかったのは、僕らがあまりにも気分屋だったからか、そもそもとしての繋がりが希薄だったからか、去年の秋からの僕の不安定さに嫌気が差してしまったからか。

 

何度でも書くけれど、去年の今の時期に比べて僕は本当に色んなものを失った。失ってはいけないものまで全部自分から手放してしまった。何かを必死に取り戻そうとして、埋め合わせとしての様々を強引に得て、それもまた失った。

自分が最低なまま改善する気もない愚かな人間です、社会的にも死んでいます、こう書くことによってなんらかの同情に似たものを貰おうとしているのかもしれないのでますます愚かです、悲劇の主演を張ったつもりの泥です、泥以下です。っていう定型文みたいな自己紹介しかできなくなっている。

 

人生はやり直せない。罪は背負ったまま、歳は取ったまま、取得単位は足りないまま、いくらレンジに入れても温め直せない日々を口にして過ごしている。毎日絶望していても仕方がないので、楽しいふり、忘れたふり、白痴なふり、親不孝なふり、主演とはいかずとも生活に芝居を。

それでも諦めきれないものがある。やっぱりもう一度加熱したいものがある。親友の女性に手紙を書いて、LINEで送った。既読はついていない。まだ仲の良かったころ、彼女は春から新潟に就職すると言っていた。でも本当は仙台に残っている。あともうちょっとが触れられない!

もう1人の男の親友は去年と変わらず書店で働いている。今日、ひさびさに彼を見かけた。いつもと変わらずレジを打っていた。本を持って、列に並べばよかったのかもしれない。昔と変わらずに話せるのかもしれない。だけどそうはしなかった。欲しい本はいくらでもあった。

 

何かのふりをしないと生きられないのはどうかしているのだろうか。なんともないふりをして書店を出た。少し経つと雨が降り出した。濡れて帰ったら何かが崩れる気がして、急いで傘を差した。