そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

僕の時代は終わった

 

なんでもいいけど捨ててよ。風が吹き飛ばしていった夏らしきもの、少しだけ鉄格子にへばりついている。月見にも紅葉にも収穫にも読書にもまだ早く、9月は何をすればいいか時々わからなくなる。思い出したかのように快晴。2017年の仙台に夏が無かったこと、他の地域にいた人達には伝わらないんだろうか。

15時にしては影が長い。コンサートのアンコール待ちの間延びした空気のような、熱狂と熱狂の窪みに似た9月3日の午後。目の前で電車を逃す。特筆すべきことが何もない人生だと思う。待合室の風は涼しい。「空き缶ポイ捨てやめましょう。線路が泣いています」という貼り紙を見つける。重い列車に日々踏みつけられていることに関しては泣いていないんだろうか。

駅のホームのことを、ホームと略さずにプラットホームと呼ぶのが好きだ。プラットホーム。英語でplatformと書く。つまり、駅のホームはhomeではなくてformなのだ。けれど日本人の頭の中ではhomeだということになっている気がする。ホームと言えばhomeだから。電車は家を出て家へと向かう。その方がしっくりきてしまうから不思議だ。どうだっていいのだけれど。

何かが起きるような物語を書くよりも、何も起きない文章をひたすら書くのが好きだ。だから小説家にも劇作家にも脚本家にもなろうと思わない。芸術家というタイプじゃないと自分でも感じる。そもそも文章がうまくない。文章がうまい人というのは、物語をしっかり書ける人だ。乗り込んだ電車は北へ向かう。薄くノイズがかかったような濁った青空が窓に広がっていて、この色のフィルター、Instagramに欲しいなと思った。

今すべてを終わらせてもいい。だけどそうしてこなかったのは、そんなに深く絶望せず、期待もせず、欲はないけれどわがままに、そうしてそれなりに幸せに過ごせているからだ。僕はこの生活がとても愛しいし、だけど常に誰かの犠牲の元にあって、自分の将来を犠牲にして成り立っていることにも気付いている。今さら深刻にもなれないし、何を書いても、何を思っても、変わらずに同じ生活を続けてしまうのだろう。夕暮れに涼しい風がいつの間にか吹き抜けて、判然としないまま、僕の時代は終わっている。