そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

暗喩の森

 

暗喩にとらわれすぎて本当のことが言えない病気だ。とはいえ、ちゃんと伝えられている気でいる。相手を選ぶ交信方法だとしても。この歪な電波を受信できる人を待ち望んでいる。

好きな人に好きって言う代わりに「チケット1枚余ってるんだけど」って言ったことない?これ以上楽しいことはないなって思った時に「両方を押さないで」なんて伝えてしまうことない?コンマ何秒かの長い長い遅れに気付いてしまったの。ただの誤差にしては重くて、神様の仕業と思うには軽くて。

暗喩を忘れてしまいそうになるほどのまっすぐな言葉は真に受けてしまう。これも病気だ。何やってんだか、なんて言わないでよ。

 

僕は僕の作ったメタファーをうっそうと茂らせて、実にそれらしい森をつくっている。けれど、たまに全部を伐採してしまいたい時があるんだ。そして広々とした土地にまっすぐなビルを建ててしまいたいと思う。でも、ビルが建つ前に砂漠になってしまうのが怖い。誰もいなくなった砂漠にいたくない。何かが潜んでいる気がする森のほうがいい。

身を隠せなくなることも怖いし、誰もいないと気付くのも怖い。水や生命はあったほうがいい。森に迷い込んだ君の気配を感じながら、わずかに降り注ぐ光を信頼している。

 

暗喩は時折、対象としては想定していない誰かに受信されてしまうことがある。特殊な解読法によって、好意や敵意に捻じ曲げられ、新たな感情を生成する素材になってしまう。誤って森に入って来る人々に対しても寛容でいたい。僕が誘い込んでしまったのだから責任は持とう。

僕は僕の森を愛しく思う。それと同じように、森を育てた土や水や光に辿り着いてほしいとも願っている。本来なら直喩のまま言うべき感情のことだ。この感情によって森は生み出されたのだから。