そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

君にしゃべりたい100以上のこと

 

もういいじゃん、という気持ちになって、スヌードを巻いて出掛ける。

 

こうやってばかみたいにブログを書いているけれど、実際はしゃべりたいのだ。誰かに。

ここには書けない話もたくさんあって、ふたりでしかできない話もたくさんあるから。

 

例えば。ここでは「友人が〜」「先輩が〜」「後輩が〜」のように、僕との関係性をある程度は公開して出来事を綴っているけれど、その人々が誰であるか特定できる決定的な情報みたいなものは出さないようにしている。

  

登場人物に名前を与えることは、第三者の「読み手」にとってはすごくありがたいことだ。「この人には○○さんという友人がいるのか、○○さんは紅茶が好きで、誕生日にはこんな贈り物をしてくれる素敵な人なのか」と、書き手だけじゃなくて登場人物ごと愛せるようになる。やがて自分も○○さんと友人になったような気持ちになって、ブログの書き手の生活のなかに、自分が存在しているような錯覚をおぼえる。

僕はこの現象がとても好きなので、いろいろな人の書く物語(漫画、ブログ、エッセイなど)を読んでは、登場人物の知り合いになったつもりで暮らしている。星野源の『そして生活はつづく』に出てくる「Kさん」に怠惰な生活を窘められたり、近藤聡乃の『A子さんの恋人』の「あいこちゃん」をデートに連れて行こうと苦心したり、品田遊の『止まりだしたら走らない』の新渡戸先輩に無視されたりしている。

 

僕はブログやSNSに自分の名前や写真があると本当に嬉しくなるので、誰かの投稿の中に自分を見つけるのもすごく好きだ。

けれど、インターネットに自分の生活が公開されるのが嫌な人もたくさんいる。それが嫌でなくとも、「18日の22時に僕と会っていた」みたいなことを明かされたくない場合はいくらでもある。秘密にしたい生活が誰にだってある。

 

だから、文芸や音楽などの作品、および作者を紹介する時を除いて、できるだけ名前を出さないという自分ルールを設けている。

もちろん、自分以外の人の日常を名前を明かさないとはいえブログに載せている時点で僕に道徳観みたいなものがない。名前を出そうが出すまいが、優劣なく良くないことだと思っている。ブログに名前を出さないからまだマシ、だとは全く思っていない。

 

話は戻る。ブログに書けないことがたくさんあるということ。本当はしゃべりたいのだということ。

話したいことがあるんだ。誰に?君に!

いつか伝えられなくなる日が来る。いつか、だなんて悠長なことを言っていると突然来る。昨日の失敗、一昨日のドラマ、欲しかった服、食べたパスタ、バイトの愚痴、ちょっとした感動、そのすべてを伝えられなくなる日が来てしまう。

 

どうしようもなく怖い。そして悲しい。いや、でも、だからこそかもしれない。いつかいなくなってしまうからこそ、今この話を聞いてくれるあなたがいて本当に嬉しいと思った。

昨日のこと。車に送ってもらった先輩にぜんぶしゃべった。そのあと別の先輩にその勢いでラインした。ここには書けないことだった。

 

伝えられなくなる前に、受け取ってくれなくなる前に、君がすべてだったと思う前に、君にしゃべりたい100以上のこと。1から話すから、ゆっくりと笑い流してほしい。

 

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もういいじゃん、ありがとね