そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

嫌いな人がいない話

 

僕は「嫌いな人」というフォルダを自分の中に用意していない。要するに人を嫌えないのです。あれ、嘘っぽい?

 

代わりにではないけれど、「嫌いな発言・行動・施策・生活習慣・価値観・フォントの使い方」などなどがたくさんあって、要素としてはっきりといろいろなものを嫌っている。

大好きな人の中にも、残念なことに「嫌いな要素」を見出してしまう。あの人はすぐ後輩に手を出す。あの人は平気で親の悪口を言う。あの人は謎の色づかいでゴシック体を使う。あの人は頑固すぎる。みたいに。

でも、「あの人は嫌い!」とはならない。そういうとこもあるよね、となる。嫌いなとこもあるけど、好きだよね、と。

 

どうしてか。嫌いに圧倒的勝利してしまうくらいの「好きな要素」があるからだ。女にだらしないあの人は、男には本当に優しくて裏切ることがない。親の悪口を言うあの人は自立してちゃんと生活している。謎のゴシック体のあいつは、めちゃくちゃ行動力があって誠実。

そうやって、「嫌いな人」などいなくなってしまう。みんな大好きで愛している。ただちょっと、苦手な面もあるということ。

 

この考え方が、ずるいんじゃないかと最近は思っている。僕は大好きな人の全てを許せていないのではないだろうか。好きな人の中の幾つかの要素を憎みながら生きることになるのではないだろうか。そうして、僕の周りにいる人たちのことを全面的に許せないでいることで、傷付けてしまうのではないだろうか。

盲目的な万人への愛は持っていない。みんなのことが好き、というより、みんなの中に必ず嫌いを見出してしまう自分が怖い。そして、嫌いを隠さずに吐き出してしまう自分が怖い。

 

「きみのことがすきだ!」僕は叫ぶ。

「でもあなた、私の中にも嫌いなところ、あるでしょう?」君が言う。

「あるけど、関係ない、きみがすきだ」

「いつかその嫌いが、後戻りできないくらい大きくなってしまうものなのよ。そうならないと約束できる?」

ここから僕は何を言っても嘘に聞こえそうで、うなだれる。

 

僕はいくらでも好きな要素を並べ立てて、絶対に嫌いが好きを食い潰してしまうことはないと誓うだろう。ずっと好きでいる。

しかしこれは僕の中での話であって、人から見れば、嫌いと好きのバランスはすごくすごく危うい。嫌いと好きは似通っていて、正反対じゃない。好きだった人のことを、段々嫌いになる、なんて話はよくある。

 

「ここが嫌い!」と言う僕よりも、全面的に好きでいてくれる居心地の良い友人を選びたいことのほうが多いだろう。

好きも嫌いも重すぎて強すぎる。思いの強さは軋轢を生む。こんなはずじゃ。

好きなんだけどな、みんな。

 

この「みんな好き」もずるいよな。嫌いな人がいないというのがどうも嘘っぽい。嫌いな人がいてこそ誠実、という気がする。そうだ、僕はずるいのだ。

もうどうしたらよいかわからない。とにかく目の前にいてくれる人を全力で愛して、それで離れていく人はもう仕方ないものだと諦めて。

 

人間不信からは脱しましたが自分不信からは抜け出せません。本当にみんなのことが好きかわからなくなってきた。好きなんだけど、それは本当の意味で好きなのか?好きってなんだ?結局嫌いに蝕まれてしまいそうになる。

 

壊れた拡声器みたいにノイズの混じった騒がしい好きを、耳元で鼓膜が破れるまで、やがてへとへとになった君を抱きしめる、そんな愛し方にしかならない。

いつか僕は「君の暗礁になりたい」と綴ったことがあった。ずっとそうだ。僕はあなたの暗礁です。乗られながら思っている。