そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

結局何者にもなれない自分の、ポーズのような諦めの

iPhoneの電源が付かなくなってから10日ほど経つ。


不便なことはそれなりにあるけれど、現状としてパソコンとタブレットとポケットWi-Fiでなんとかなっている。出先で人と連絡を取ることが極端に少ない生活のおかげでもあるから、あまりおすすめはできない。


一番困っているのは、写真を撮りたいと思ったときにすぐ撮れない、ということだ。写真を撮る、という行為が非常に好きなので、生きていく上で多用していたコマンドを一つ失った僕は、目の前に見える景色に対し何かを思ったとしても「立ち去る」を選択することが増えた。


カメラを買おうか、とも考えている。昔から綺麗な写真を撮れる人に憧れていた。iPhoneや肉眼では見えない景色を映してみせる写真家は、きっと自分とは違う目を持っていて、美しいや醜いや儚いに、もっともっと敏感に生きているような気がする。そんな世界を見てみたい。

 


大学に入ってすぐ、写真部に入部したことがある。写真を撮る人、に憧れていたからだ。実態は、部室に入り浸って漫画を読みゲームをする人、写真そのものよりもカメラの種類やらレンズの種類やらにひたすら詳しいから写真部の部員というよりもカメラ部の部員と言ったほうが適切であった人、運動部や活発なサークルから距離を置くようにして写真部に行き着いた人、みたいなものの集まりで、確かにすごくいい雰囲気をしていた人もたくさんいたけれど、それだったら一人で撮ったほうがいいな、と思った。


とはいえカメラを買うお金と気概もなく、何も考えずばしゃばしゃと写真を撮り溜めるだけの人になり、iPhoneが壊れたのでその撮り溜めた写真すら無くなって、今に至る。
22年も経つと自分のことをよくわかったつもりにはなれる。自分は絵も描けないし、文章も書けない、楽器も弾けない、まあつまり、芸術の才が無いのだろうから、カメラを買ったところで写真を満足に撮ることはできない、と。

 


みんないつどこで自分の芸術性(と呼べるようなもの)に気付くのか。僕は未だそれを自分に見い出せず、かと言って諦めきれず、たまに誰かの模倣をして、写真を撮ったり文章を書いたりしている。


結局何者にもなれない自分の、ポーズのような諦めの、模倣にすらならない絶望に、いつになったら飽きるのだろう。