そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

僕の中に潜む「誰か」の話

僕は非常に周りの人の影響を受けやすい。

写真好きの友人に感化されて大学では写真部に入った。tumblrで素敵な文章を書いている友人がいたのでtumblrをはじめた。その時付き合っていた彼女が好きだったバンドをウォークマンに入れて聴いた。御神籤好きな友人の行った神社に参拝して回った。

振り返れば、自分のほとんどの行為・行動は「誰か」に影響されたものだと気付く。高校選びの基準は、大好きだった先輩がいたから。大学も、その学部も、高校の先輩のいる場所に決めた。今やっていること、これからやろうとしていること、行きつけの店、着ている服、話す言葉、表情…僕の爪先から五臓六腑に至るまで、すべてに「誰か」が潜んでいる。

「人は一人では生きていけない」と言うけれど、あれは本当だと思う。僕は僕以外の誰かがいなければ、何を着て何処へ行きどう暮らしていいのかわからない。行動の節々に「誰か」は生きている。僕は「誰か」のコピーになろうと努める。彼なら、彼女なら、こうしただろう、と。

僕の生活に潜む「誰か」は何千人といる。出会ってきた人の数と比例するようだ。出現頻度には違いがあって、自分が強く意識している人ほど、コピーする回数も増える。憧れとは少し違う。僕はずっと「誰か」になりたかった。

しかし、誰にもなれなかった。出来上がった人格は自分であって自分でないような、じゃあ他の誰かかと問えばそれも異なる、なりたかったものとは程遠い自分だった。

あと2か月も経てば22歳になる。劣化コピーと誤謬と失踪をくりかえした生命体が今後どうなるかなど分かり切っている。それでも少し希望はあった。一番近くにいた「誰か」に染まって生きていればどうにかなると、浅ましくも思っていた。

 

このブログは、21歳最底辺男の最低な生活を記録するものです。