そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

一石を投じる


梅雨前の、春とも夏とも言えない生温い空気を季節外れの半袖と自転車で掻っ切って、週6回・休憩込み12時間を過ごすいつもの場所に向かう。信号のパターンを読んで、あえて手前の角で曲がり、その先の歩行者専用道路を走り抜ける。出勤20分前まで家で寝ていても仕事に間に合うことが特技だなんて、どうしようもないと自分で思う。

コンビニより稼げるから、夏休みの1か月だけやってみようぜ、と友人に誘われて始めた飲食店の厨房でのアルバイトを、いつの間にか3年も続けていた。1か月きっかりでバイトを辞めた友人は就職して遠くの街に引っ越した。知り合いの多くもこの街を離れている。僕の夏休みはいつまで続くのだろう。

店の裏にある勝手口近くに喫煙所(といっても灰皿代わりの空き缶すら置いていないけれど)があって、そこに八島がいた。八島は僕より18個も年上だが、中途半端な服装のセンスと威勢の良さも相俟って、40歳を超えているようにはあまり見えない。
 
 
「あーあ、俺も一石投じたい人生だったなあ」
「なんですか、イッセキ?」
「朝のニュース見てて思ったのよ。一石投じれたらなって」
「イッセキ、一石、ああ。死んだ歴戦の騎士を称えるみたいに言うから最初は何のことかわかりませんでしたよ」
「あいつとは一戦交えたかった…ってやつか?今時、死んだ歴戦の騎士を称える人間がいるかよ」
囲碁か将棋の方の棋士ならいるかもしれません」
「もしくは野球か?」
「西武の岸なら、パ・リーグの打者はほとんど戦ったことがあるでしょうね」
セ・リーグの打者なら言うかもな。そして岸は楽天にFA移籍したぞ。お前ちゃんとニュース見てるか?」
「スポーツ情報が流れないタイプのニュース番組しか見ませんよ」
「奥様が見るやつじゃねえか、お前は何様だ?」
「フリーター様です」
 
 
「奥様」と同じイントネーションで「何様」と発音する八島が、明らかに俺は面白いことを言った、と主張したげな顔をしている。こちらも意地になり、苦笑さえも許さない勢いで吐き捨てた自分の現状の、弱々しい響きに虚しくなって結局苦笑いをしてしまう。

昼のニュース番組では、数か月前に起こったという中学生の自殺について論じていた。原因はいじめだった、という痛ましい事件であり、そしてテレビ的には鉄板の話題だ。
厨房用の制服を着たまま家を出てきたので、ちょうど15分休憩が終わる八島と共にそのまま厨房に入った。今週から中華フェアが始まるらしく、薄汚れた壁のそこかしこに新メニューの作業工程が張り出されている。
 
 
「八島さんは、ワイドショーの食い物にされたいんですか」
「随分と酷い言い草だな、世間様の話題に上る死に方は悪くねえと思わないか」
「嫌ですね。ひたすら嘲笑の的でしょう」
「死んだ中学生は笑われてないだろう。晒し台に乗せられているのはいじめを見抜けなかった社会の仕組みそのものだ。一人の死によって社会が断罪されようとしている」
「罰を執行するのもまたその社会の仕組みですよ」
現代社会には自浄作用こそないが、誰かが投じた一石によって誰かが目を覚ますことがある。それを完遂できれば、どこにもあるはずがない生まれた意味が少しは見出せるんじゃねえの」
「もう死んでますけどね」
「それが良いんだよ。死ぬことによって生が完成するんだ」
「哲学みたいな話ですね」
「生きることがすなわち哲学みたいなもんだからな」
「哲学者がなんで寂れた街の汚いファミレスで回鍋肉を炒めてるんでしょうね」
「何も考えてないお前に言われたくねえな」
 
 
何にも考えてないから僕はここにいるんだろうな、と思った。

返答が無いことを確認してから、八島はコンロの火力を上げ、調味料を入れて一気に料理を完成に近付けていく。噂で聞いた話だが、かつて彼は有名レストランでシェフとして数年間働いていたらしい。この話が本当に思えるほど、八島は料理が上手だった。手際が良く、完成品の見栄えもとても真似できない。新メニューであれ、期間限定メニューであれ、マニュアルを見ずとも完璧に作ってしまう。八島がいないと店が成りたたないからと、営業時間のほとんど彼は厨房にいた。

でも、どうしてこんなところにいるのだろう。
 
 
「今からでも間に合うんじゃないですか、一石。まだ生きてるし」
「俺はもうだめだ。石は価値のある人間にしか務まらないんだよ。若い学生とか、広告代理店の女性社員とか」
「後者はピンポイント過ぎやしませんか」
「ホームレスや生活保護の奴らは次々死んでるのに、小石どころか砂にもなってねえだろ。俺もあんな感じで、そよ風にさっと吹かれて飛んでく命なんだよ」
「昔はそうじゃなかったんじゃないですか」
「昔は昔。今は今。そして今は回鍋肉を作らなきゃならない」
「こんなところで回鍋肉を作るための命じゃなかったはずです」
「何が言いたい?」
「もっと、都心の高級なレストランで…」
「んなことは誰だってそうだろうよ」若干声を張り上げて八島は言った。
「誰だってよ、最初はでっかい石なんだよ。生きてく間に川の流れに飲まれて、丸くなって、小さくなって、しまいにゃ形すらなくなっていくんだろうが。お前だってそうだろ。一応は大学には行ってたんだろ。ところが今じゃドブ川みたいな汚いこんな場所で回鍋肉すら作れずに海に流されちまってる途中だろう。何があったかは知らねえし、聞かねえ。知る必要がねえ。お互い様にだ」
「でも、じゃあ、だとしたら、一石投じたいってことは、川上からやり直したいってことですよね。石になって、そこから陸地にえいやって飛び出したいんですよね」
「あーやめだやめだ。飯が不味くなる。しかもお客さんに出す飯だぞ。不味くなったらまずいだろうよ」

「待ってください」

話をはぐらかして、厨房の奥の方へと行ってしまう八島を僕は呼び止めた。
 
 
「八島さんの作る料理、どれも美味しいです。オムライスは卵がふわふわで、ハンバーグは中の肉汁がたっぷりで、鶏の唐揚げは衣がさくさくしてて、他のも全部美味しくて、こんなに価値のある料理を作れる八島さんが、価値のない人間とは思えません。第一、僕は今の八島さんしか知らないけれど、小石だとか砂だとか思ったことは一度もないです。僕なんかが言うのはおかしいけど、大きくて、少し尖ってて、立派な石だと思います。八島さんは、過去ばかり見て、今の自分が全然見えてないんじゃないですか。僕はあなたの今と、これからのことを見ています。石です。飛んで来たら怖い、大きな石です」
 

続いてのニュースです。○○市のファミリーレストランでの長時間労働による過労が原因で40代の男性が亡くなった事件で、県警は業務上過失致死の疑いで経営者である男を―
 

僕らはどうしてこんなところに生きるんだろう。
 
 
 
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以上、楽しい書き殴り自由作文のコーナーでした。題名は「一握の石」とかにします。
 
(2725字、1時間)