そこが海ではないとして

This is the meaning of my life.

底はありありと僕らを見てる

 

僕の身の周りに限って言えばの話だが。

正直、元通りか、それ以上になっている。住んでいるマンションの補修工事はとっくのとうに終わり、あんなにめちゃくちゃになった長町の商店街の道も直され、その近くに大きな体育館ができ、IKEAができ、ライブハウスができ、その近くのだだっ広い敷地にあった広い平屋の仮設住宅は全て取り壊され、向かい側に建った高層の復興公営住宅に皆移った。仙台の中心部ではヨドバシカメラが大きなビルを建て、壊れたEBeanSも本屋ビルとして復活し、そのあとサブカルビルに変容し、PARCOとS-PALが新館を建てた。それ以外にもたくさんのものが入れ替わったりしているけれど、失ったものよりも新しく出来たもののほうが目に付く。街のスピードに乗り遅れてしまいそうになる。

 

繰り返す。僕の身の周りに限って言えばの話だ。

 

僕はまたどんどん悔しくなっている。一生かけてもわからない苦しみを味わった人たちは、身の周りの、ほんの少しだけ外に。外と表現するのもおかしいくらいの近さにいる。海までは、僕の家から車で20分。すぐ近くにいるのに、永遠に届きそうにない。

果たして、届こうという努力を僕はしているだろうか。それを放棄しつつあったここ数年だ、という自覚は大いにある。東北の復興に携わりたいと、大学の志望書にもゼミの志望書にも書いた。復興に関連する学生団体を選んだ。しかし、自分はどんどん遠のいていく。何が出来るのかを考えて、結論として何も出来ない、などといったループに疲れてしまった部分もあるかもしれない。ただの傍観者が何に疲弊しているんだろう。自分を嫌う、という一番意味のない行為に終始しつつ、2017年の仙台で生きている。

 

加速する仙台の街並みと比べても遜色ないくらいに、女川は新しい街に変わっていた。山下もそうだ。閖上は?野蒜は?荒浜は?雄勝は?それぞれの人の心は?前を向いている人達の中に、取り残された人達がいるかもしれない。そしてそれは単に街の変わり具合だけでは計れない。どこまでやればいいのか、どこまで戻ればいいのか、進めばいいのか。そもそも復興とは何なのか。それって、普通でしょ?普通って理想でしょ?理想って叶わないでしょ?

はっきり言って僕は未だにあの日から続く様々な出来事が自分のなかで大きなトラウマになっている。向き合うために、傍観者だった自分を変えるために、何かしようと思って大学に入った。

 

人生で1番、あの日に本気で向き合った機会があった。今からちょうど3年前。新聞社のインターンシップで、被災した中小企業を取材した。そこで僕は、はっきりと折れた。なんとか前の日に原稿を書き上げ、インターン最終日は東日本大震災の報道映像を見ることになっていた。でももう、あの空間で、あの人達と、あの日の映像を見られる気がしなかった。折れた。逃げた。見られない。見たくない。もういいじゃん、と思った。もういいじゃん、で人生は巻き戻らないし、何も変わらない。悪化するだけだ、と学んだ。

どうして自分がここまで東日本大震災によってダメージを受けているか、今でも全然わかっていないのである。家は無事で、家族も友人も無事で、大したことなんてほとんどなかった。もっとつらい人はたくさんいて、自分ががんばっていかなきゃならないのに、どうしてなんだろう、とばかり思っている。

どうして津波の映像が見られないんだろう。どうして何の力にもなれないんだろう。

 

去年、災害に「向き合う」映画が3つ立て続けにヒットした。襲ってきたものは3作品それぞれに違うし、それに対する対処もすべて違う。けれど、皆あの時にあったことをいよいよ消化しようとしているのではないかと思った。あの時のことを描いて、その後どう生きるか、ということを考え出しているように思った。

君の名は。」も、「シン・ゴジラ」も、一瞬であの時のことを描こうとしているのがわかったので、映画館の中ですぐに身構えてしまった。苦しくなった。でも、最後まで観られたし、いい映画だと思った。

少し前の僕なら、もっと苦しくなったかもしれない。これはただ単に時間の経過による僕自身の中での風化だ。忘れようとしたから、覚えたまま悲しみの鮮度を失っただけだ。自分の力で向き合ったのではなく、時間が僕を鈍くさせたのだ。そう思い、やはり虚しくなる。

 

いよいよ、何にもリベンジが出来ないまま大人になる。確かに去年、地震が起きて間もない時期に熊本には行った。しかしあの時、何か出来たんだろうか。何にリベンジしようとして、何と戦ってるのかもわからない。最初からわからないんだ、苦しんでいる理由が。戦いようがない。